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生きづらさと向きあう任意団体

奈良・藤原広嗣邸跡地に、唐津・松浦と同じ名の「鏡神社」あり

(前編「~藤原広嗣ゆかりの鏡神社を訪ねて~」から続く)

テーマ=聖武天皇の真意<後編> ~奈良・南都鏡神社を訪ねて~

今回のルート=(近鉄奈良駅)➡①頭塔➡②南都鏡神社/新薬師寺➡③東大寺➡④聖武天皇陵/光明皇后陵

【ひとことコメント】奈良のピラミッドと呼ばれ、32m四方、高さ10m、7段にそびえる頭塔(ずとう)。この頭塔は、前編に登場した僧侶・玄昉(げんぼう)の首塚とも言われる。そして、佐賀唐津にある「松浦の鏡神社」二ノ宮に藤原広嗣が祀られた半世紀のち、ここ奈良の藤原広嗣の邸宅があったとされる場所にも、鏡神社が勧請される。国家を憂う者と私欲に走る者とのせめぎ合いは、奈良時代も現代も同じ。聖武天皇の真意をさぐる旅、後半へ。

※聖武天皇と光明皇后が真に願ったこととは?

前編で紹介したとおり、玄昉(げんぼう)と吉備真備(きびのまきび)の2人を「朝廷から遠ざけよ」と上奏した藤原広嗣は処刑されました。広嗣の死後、その遺志が届いたかのように玄昉(げんぼう)も筑紫に配せらます。ところがほどなくして玄昉は、観世音寺落慶に際して憤死。その五体が奈良まで飛んだといわれ、首が飛来した場所が、今回訪れた頭塔であるとされています。頭塔から徒歩10分ほどのところ、藤原広嗣の邸宅があった場所に、新薬師寺の鎮守として勧請されたのが、南都鏡神社。新薬師寺といえば、聖武天皇と光明皇后夫妻が開基。帝夫妻が、“霊験新たかな薬師の寺”によって鎮めたかったことの正体とは何だったのでしょうか。

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近鉄奈良駅に降り立ち、まずは行基さま像を拝んで出発。半日旅の今回は、修学旅行生で賑わう興福寺には目もくれず、徒歩で頭塔、そして南都鏡神社へ。途中のカフェでお昼をいただきながら、春日大社、東大寺とめぐり、最後は聖武天皇陵(隣に光明皇后陵)へ。

①頭塔

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私が行った2013年当時は、管理人をされている近所の仲村表具屋さんでカギをもらって、この入口から入りました。
現在は、現地の東隣にあるホテル「ウエルネス飛鳥路」のフロントに申し出ると見学できます。

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これが史跡・頭塔。奈良県教育委員会によれば、767年に、東大寺の僧で二月堂修二会行法(=お水取り)を創始した実忠が、東大寺別当の良弁の命により造った塔であるとされています。

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瓦の下には石仏が(27基のうち22基が重要文化財指定)。
私Okeiは、東京国立博物館東洋館にある則天武后発願の宝慶寺石仏群が好きで時折観に行きます。シルクロードの石仏を彷彿とさせるこのような場所が国内にもあったとは。松本清張は玄昉をモデルにした小説『眩人(げんじん)』の中で、光明皇后が則天武后を手本にしたと記述しているのですが、それが真実だったと思わせる史跡ともいえます。

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近年になって調査や発掘が進み、2000年から現在のように見学が可能となりました。発掘調査をしながら補修が繰り返された様子がパネルになっています。
日本史は、まだまだ未知の部分がふんだんにありますね…

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玄昉の頭を葬ったという噂は、平安時代に書かれた『七大寺巡礼私記』などによるもの。大正時代以降の調査で、ここは孝謙天皇(聖武天皇と光明皇后の御子)が鎮護国家のために造らせた土塔とされていますが、女帝・孝謙天皇の前期は光明皇太后が後見していたので、長屋王の変以来の懸念事が反映されていたとしてもおかしくはありません。

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断面図を見ると、まさにピラミッド。ただ、当初は段数も少なく、崩れやすい造りだった様子も。崩れるのを防ぐために石が積み足され、現在のような7段造りになったようです。
また石仏を覆う屋根も、保護のために造り足されたもの。頂上の五輪塔は江戸期に造られたものではとの記述があります。

最近は、Facebookページで春と秋の特別公開期間が告知されています。その期間であれば、ガイドさんが常駐しているようです。

②南都鏡神社/新薬師寺

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藤原広嗣邸の跡に建立されたといわれる南都鏡神社。

 

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祠の梁のところに、美しい天女が掲げられていました。古い時代のものではないのでしょうが、記録として。

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今回も一緒に旅したサンギーティの会の加藤悦子さんと。

由緒を説明する文書がいくつか貼りだされていましたが、Wikipediaなどに書かれた藤原広嗣の乱の解説とは異なり、広嗣を擁護する書きかたになっていました。

乱の勃発について、
「特に玄昉は非行多く、僧にあるまじき所行が多かった。公の純清・剛直の性は之を黙視し得ず、同十二年上表して時弊を指摘し、君側の奸を退けられんことを乞うたが、上表後七日にして思ひもかけず官軍の攻撃を受けるところとなった。」
とあり、朝廷軍の挙兵が先で、広嗣が応戦したと書いています(前編でもふれた通り、広嗣軍の挙兵が先だったとすると、三方から挙兵した軍が筑紫の地にて合流すらできておらず、不自然ではあります)。

続いて、「広嗣軍は官軍と筑後板櫃川(いたびつがわ)に戦い、たちまち破られ肥前長野村にて捕えられ、松浦郡にて討たれた。義志かなわず、反乱の汚名をこうむって討ち取られた」とあり、朝廷側の勇み足によって「汚名をこうむり」広嗣が処刑に追い込まれたような記述になっています。

また、乱の経過についても次のように詳しく書かれていました。

(朝廷軍の)常人らは部下の隼人に敵側の隼人に投降を呼びかけさせた。すると、広嗣軍の隼人は矢を射るのをやめた。
常人らは十度、広嗣を呼んだ。ようやく乗馬した広嗣が現れ「勅使が来たというが誰だ」と言った。常人らは「勅使はわれわれ佐伯常人と阿倍虫麻呂だ」と応じた。すると、広嗣は下馬して拝礼し「わたしは朝命に反抗しているのではない。朝廷を乱す二人を罰することを請うているだけだ。もし、わたしが朝命に反抗しているのなら天神地祇が罰するだろう」と言った。常人らは「ならば、なぜ軍兵を率いて押し寄せて来たのか」と問うた。広嗣はこれに答えることができず馬に乗って引き返した。

広嗣が返答に窮しているくだりがいかにも不自然なのです。「広嗣が挙兵した」というのが虚報で、朝廷軍が先に攻め入って来たのであれば、(何者かにハメられたことを知った広嗣が)「答えることができず馬に乗って引き返し」たのも納得がいきます。

※元近畿大学教授の藤原敞氏から写真と原稿の提供を受け、浦野英孝さんがホームページとして運営されている「奈良観光」というサイトの聖武天皇の項においても、天皇側が先に挙兵したと記されています。

③東大寺

日本旅行記賞などを受賞している歴史小説家の中井眞耶らによれば、東大寺の修二会がそもそも、盧舎那仏建立の最終段階で金メッキ塗装のためアマルガムを燃やした際、水銀中毒者が多数出たため、その供養の目的で行われているとの説があります。20130302tohdaiji
長屋王の変(光明皇后の立后に反対した

長屋王を、藤原兄弟が自殺に追い込んだ事件)から、天然痘による藤原四兄弟の死、藤原広嗣の変、玄昉の憤死… と、聖武天皇・光明皇后の治世には異変が続きました。

抗するように、夫妻は仏教を厚遇。大仏(盧舎那仏)建立を発願しますが、そのさなかにも多数の死者が出てしまった。帝夫妻の苦渋の思い、測り知ることはできません。

④聖武天皇陵/光明皇后陵

藤原広嗣が朝廷軍と戦った折、京への乱の波及を恐れた聖武天皇は、乱の勃発と同時に東国に御幸し、乱の後にも平城宮へ戻らず橘諸兄と関係の深い山背国相楽郡の恭仁京に遷都したとされています。松本清張は先述の『眩人』で、その理由をひとえに(玄昉が唐から持ち帰った秘薬で治癒するまで病床にあった母・宮子皇太后譲りの)精神的脆弱さゆえ、と記述していますが、それだけでしょうか。

陵墓に佇みながら感じたことは……。もしかすると、「広嗣を討て」と大野東人に命じてしまったことについて、直後から悔いていたのではないかということです。

【おわりに】

「仏像でナイト」という催しを主宰する新宿牛込柳町・経王寺の互井観章住職から、聖武天皇についてこんな話をうかがいました。

自らが天皇家と藤原家とのハーフでありながら、聖武天皇は、皇族に藤原家の血が入りすぎることを懸念していたのではないか、と。

同感です。そう考えれば、広嗣の乱の最中、朝廷軍優勢との情報が入っていたにもかかわらず、聖武天皇が都を出て気弱に東国へ御幸したことも腑に落ちるからです。

「玄昉と吉備真備の2人を除くべし」と広嗣が上奏したとき、聖武天皇は、生粋の藤原の血が再度朝廷の中央へ入ることを避けたい思いがはやり、広嗣が「2人の代わりに自分を登用せよと主張している」と早合点し、謀反と疑い、大野東人に軍を遣らせてしまった。ところが、南都鏡神社の記録通り、冷静に思い返してみると広嗣は、「野心家の2人を除いてほしい」と願っただけで、自らの登用までは希望していなかったと思い至り、討伐・処刑したことを悔いたのではないでしょうか。だからこそ、乱のあと玄昉を筑紫へ配したのでしょう。

その玄昉の首塚と言われた頭塔とそこに並ぶ石仏。これも、東大寺別当の命により、修二会を始めた若き僧が造ったとなれば、盧舎那仏建立によっても鎮めきれなかった大きな災いを終結させたいと願った聖武天皇夫妻の思念の結実であるとも考えられます。

仏教を厚遇したことで聖徳太子とも並び称され、大仏建立などの功績から聖人的側面もありながら、松本清張の記述では気弱な帝の印象もあった聖武天皇。藤原家の趨勢に翻弄された時代を代表する帝夫妻の真意は、皇族であるか藤原家であるかにかかわらず国家安泰を願うこころであったに相違ないのです。

自己や特定血族の利を離れ国家の行く末を憂うこころは、夫妻と広嗣がともに持っていたと感じます。諸兄、玄昉、吉備真備らはどちらかといえば自身の利に固執していたと推察されますが、彼らに惑わされながら、夫妻は同じ志であったはずの広嗣を殺めてしまった。それが、“菅原道真よりも崇徳上皇も古い怨霊”とも呼ばれてしまった藤原広嗣をめぐる奈良後期の真相ではないかと思える旅でした。

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