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生きづらさと向きあう任意団体

お坊さんと話そう!第1回『いいお坊さん ひどいお坊さん』出版記念

お坊さんと話そう第1回を読みます

勝桂子著
『いいお坊さん ひどいお坊さん』出版記念

ひとなみプロデュース

お坊さんと話そう!

@渋谷Li-Po
2011年11月20日(日)
18時~21時

拙著『いいお坊さん ひどいお坊さん』出版記念。ただパーティをするだけじゃもったいない!
これまでお坊さんと面と向かって話をしたことがないような人たちが、お坊さんと話せる場をつくってみたら、本の趣旨にピッタリなのでは。通常のひとなみ座談会や勉強会とはちょっと違う、夜の都会の片隅で開催してみました。

場所は唐の詩人・李白の名を店名にした渋谷のバー「Li-Po」。Okeiの行政書士仲間Mさん提供により、この日にちなんだデコチョコが配られました(↑右)出演してくださったお坊さんは、平井裕善さん(浄土真宗・左)、吉田健一さん(浄土宗・中央)。あと一人、松本智量さん(浄土真宗)もゲストなのですがやんごとなきご法務にて遅れて登場の様子…… お坊さんと話そう第1回03

お坊さんと話そう第1回05 ↑そこで急きょ、大阪からお越しの三浦紀夫僧侶(NPO法人ビハーラ21・左端)と、名取芳彦僧侶(真言宗・中央、三浦氏の隣)にも飛び込みでご登壇いただきました!およそ40人のかたにおいでいただきました。(客層は40代~60代が中心)←週刊誌に”悪いお坊さん10ヵ条”として、「お布施の額を明確に示さない」という項目が挙げられてたそうです。(間違えて別の雑誌を持ってきてしまったので、掲げている表紙は関係ありません^^;)。吉田健一 「その条件なら、私も”ひどいお坊さん”です」

著者Okeiのプレゼン。「(世間の人が思う)お坊さんのタイプを図解してみました」

Okei 一般の人にとってはおそらく、右上が「いいお坊さん」、左下のピンクのところが「ひどいお坊さん」かもしれません(子どもたちと握手をするダライ・ラマ師の映像に仏教のすばらしさを感じる人は多い)。

でも拙著では、右下が一番クセモノだと考えました。なぜなら、左下の人たちはわかりやすいから、騙されるほうも悪い、で済むのです。利他(人のため)とうたいながら内実はリーダーであることへの満足感を得ることが目的になってしまっているかたの場合こそ、もっとも人を傷つける可能性があるのでは?

一方、お坊さんの世界では、左上が崇高なお坊さんで、町に出ていくのは邪道という声もあるらしい。

本来は、上の右と左を”行き来する”のがいいお坊さんなのかもしれませんね。

※このあと、通称“萌え寺”として知られる八王子のお寺のPV(プロモーションビデオ)を会場の皆さんといっしょにYou Tubeで視聴。


本堂に奉納されている
“とろ弁天像”

了法寺のマイクロバス


お寺入口にある“萌え看板”

Okei 1年前は、”信じられない”、”許せない”、”日蓮宗宗務部は何も指導しないのか”と感じました。
Facebookの<ひとなみ>ページで、まわり中のお坊さんに、どう思います?と問いかけました。
そうしたら、お坊さんがたはけっこう寛大で、「あの住職は何も知らないんだ」、「のほほんとしている人で、周囲に勢いでやらされちゃっているだけだから許してやってよ」という反応。
「え~、一般の人はこういうの許さないんだけどなぁ・・・・」と疑問に思いました。
そのギャップが、今回『いいお坊さん ひどいお坊さん』を書くキッカケにもなっているわけです。
ところが、『いいお坊さん ひどいお坊さん』を書き終えたいま、了法寺もアリなんじゃないか、と思える自分がいます」
この話題の最中にタイミングよく、八王子在住の松本智量さん、ご到着!

松本智量 「了法寺は地味なお寺です。盛り上がってるのはネット上だけ。昨日、今日と八王子まつりでしたが、出店すると集客はあります。はじけたお寺だという印象は、少なくとも八王子では、いまでもないです」

ただ、今回の本でも、ある弁護士さんからは「ひどいお坊さんの話が少なすぎる。もっと脱税とかしてる坊主がいるだろうが。ちゃんと取材したのか」とお叱りを受けました。
私が了法寺を持ちあげ始めたら、一般の人はついてこなくなるんじゃないか、とも思うのです。「誰か止めてください!」と思うけれど、いま場内では誰も止めてくれないですね^^;
※了法寺も、サイトを拝見すると、「檀家総代なり誰か止めてくれると思ったが、誰も止めてくれなかった+おみくじで大吉が出たので」Goサイン
※一遍上人の踊り念仏も同じ。「私が始めたわけじゃないんです。信徒がはじめてしまって、誰か止めると思ったけれども止めなかった」と。

三浦 私の所属寺は、20年ほど前、大阪で坊主バーを始めました。当初は「坊さんがバーを経営なんて」と揶揄されましたが、受け入れられてきています。世の中では相当言われているかもしれませんが、実際に見に来て、これが本当に坊さんの態度として許せるか許せないか判断してくださいと。(だから了法寺についても、実際に見てみないことにはなんとも言えない)

名取 不特定多数のかたに「接触を持てれば布教になるんだ」という印象。昔から、文化講演会や図書館を作るなどという布教の方法はあります。その場合、注意点としては「教義を押しつけない」というのがあると思います。
私も声明ライブをやって9年目になりますので、お坊さんがお寺の外に出て活動することはいいなと思います。酒を飲むような場所で神聖なお経をよむなという人もいますが、「そう言うなら実際に見てくれ」と。実際に見に来た人は、これまでいません。

平井 お酒飲む話でいうと、「僧職系男子と癒やされナイト」、というお坊さんとふれあいましょうという場を設けています。布教のようなことはしないで、ほとんどしゃべるだけです。これも、ふざけていると言われているのかもしれませんが、場を見ていただけたらどうかなと。
了法寺の取り組みは大好きです。勝さんが(1年前の感想として)厳しく指摘しているのを聞きながらズキッ、ズキッとなってました(笑)
名取先生が言われた不特定多数への布教は私の宗派でもやっていまして、四年前の「東京坊主コレクション」などが大きかったです。人が大勢集まったときは舞い上がって喜んだんですが、そこに来た人たちはほかへも行くんですね(笑) たくさんの人が来て、たくさんの人が帰っていくだけ。だから、人を集めたら、その「次の段階」で何をするのか、が重要。ですから今は、もう少し顔の見える形で、少数のかたがたとお酒を飲みながら語らうというようなことのほうが地道かなと。

三浦 私は葬儀屋としてお坊さんとつきあってきたんですが、上から目線でかかわりたくない人もたくさんいました。でもいま自分がお坊さんの世界に入ってみたら、いい人がいっぱいいるんです。でも、宗派のお役人さんになっているかたが多い。つまらないんです。
お念仏はコレを言わないとだめ、というように。お寺のお役人さんではなく、社会の中のフリーランスでありたい、と思うこともあります。
宗派の教義があるのであまり逸脱することもできないというジレンマがある。了法寺の活動も、個人の僧侶としては抜群にいいと思えるんですが、本来は、お寺を出て社会の中のフリーランスとしてやっていただくべきことなのかなと思うこともあります。そのかた一代のことであればいいですが、次に同じお寺を継がれるかたにとってはどうなのかなと。宗教法人というハコとお坊さんの関係が曖昧になっているケースがあって、そこがこんがらがったまま話が進んでしまう場合がある、ということを指摘したいです。

・ただイベントやって帰る、ではなくアキバでPC買ってはひここもっている若者のこころの救済につながっているかどうか、が、了法寺が(平井さんの言う)「次の段階」に進めるかどうか、という分かれ目ではないか。
・一般民衆のほうが(Twitter)ついてきてしまった、「ああいうお坊さんがいてもいいじゃないか」と受け入れる側のほうが早かった。

(会場から) 一般の人が「受け入れている」、というときに、目新しいもの、ちょっと理解できていないものをあえて「いいんじゃない?」と受け入れているのか、本当にイイと思っているのか、素朴な疑問がわきました。

―そのあたり、地元周辺での受け入れられかたは具体的にどうですか?

松本 総代さん(年配)たちにも、じつは肯定的なんです。宗教の原点みたいなところがあの活動にはあると僕は思ってます。宗教の原点は、日常から少し逸脱する、ちょっと乱暴なことをやって日常というものを別の角度から照らす、というのが宗教の重要な要素の一つとしてあって、それを了法寺は実践しているとみられている。壊すにはいたってないですが、日常をズラす、伝統というものと違うことをしている、ということは言えると思うんです。

吉田 僕個人はなんでもOKです(イベント、という言葉についても飲酒についても)。檀家120強ですが、スペースがいっぱいでもうお墓はつくれない。生活はギリギリです。納骨堂をつくろうか、お墓をつくろうかとなって、秋田さんと神宮寺まで見に行って、永代供養墓をつくったんです。
お寺とご縁を持てない人こそ、これからはお寺とかかわるべきだと、葬儀屋をやっていた頃に思いました。地下水はどんどん別のところへ流れている。だから、こちらのほうへ戻したかった。宗派も関係なく、敷居を低くして受け入れますと。
敷居を下げたことで集まってくるかたと交流したり、納骨堂でであった人たちが信頼関係で親族でなくてもご供養しあったりということがしたかった。
布教という観点でいえば、まず、こちらに目を向けなくては、どうにもならないんです。

松本 お墓のことを切実に感じるのは、60代以上でしょうね。「お墓」とか「檀家」という定義だって、寺ごとに定義が違うことがまず問題なんです。檀家制度が最後の砦であるという声もありますが、むしろ私の感覚からすると檀家制度はもうないという感覚です。寺が縛る形の檀家制度は形骸化していて、いまや人々は寺に縛られていないです。移動は簡単になっていますし。
うちの寺でも檀家という言い方もしますけれども、ファンクラブみたいな感覚です。あるいは、メンバーズっていったらいいのか。つまり、縛られてる、縛っている、という関係はすでに崩れているということです。
寺と関係を持ったからといって寄付を要求されるとか、週刊誌でいわれるような法外なお布施を要求されるということは、もはやレアケースになっていると思います。そんなことに従う人は、もうごく少数ですよ。

―この本を読んでくださったかたがたが、少しでもお寺に足を運んでみようかなと思ってくださったり、あのお坊さんともうちょっと話を聞いてみたい、と感じていただけたらいいなと思います。いまから30分ほどご歓談いただいたあと、「生きづらさ」というキーワードで活躍されているかたのプレゼンテーションもありますのでよろしく。

本を書いたあとの著者の結論
①来るもの拒まず ②去るもの追わず ③否定語を使わない

①については、一般の人の多くが、仏教はそもそも争いを好まず平和的思想だと考えているため。また日本の仏教の大半を占める大乗仏教では、阿弥陀如来がそもそも一切衆生を救っているはずなので、お寺に来る人を「考えが合わない」などと拒絶したり、他宗派や他人の試みを否定したりするのは仏教的ではない、と感じる人が圧倒的に多いことから。
②カルト教団がなぜ「いけない」と言われるのかを考えると一目瞭然。
③お坊さんから「それは違う」と言われると、「常識ないやつだと思われたんじゃないか」「何も知らないやつだと思われたまま、死んでもずっとお経を唱えられてしまうんじゃないか」と、人は心配になる。了法寺は、①~③のどれも破っていない。だから、いいんじゃないのか。

ちなみに、拙著208ページに登場し、お寺の仏具をシリコン製の掃除道具で拭く和尚さんの姿がニュースで映し出されたのを見て吹き出した我が家の長女12歳(当日受付にいた背の低いほうの者です)いわく、「掃除具は“楽に早くきれいになればいい”という思いで使うからダメだけど、萌え寺は、少しでも人を呼び込みたいという思いがあっての努力だからいいんじゃないの」だそうです。

お坊さんと話そう第1回

シンポジウム終了後の自由歓談タイム。イベントの狙い通り、「お坊さんと話そう!」な場になりました(^-^)/


自分史で日本を元気に!
Okeiも所属する自分史活用推進協議会、
高橋誠さんのプレゼン


レコードでつなげる社会づくり。美輪明宏はじめ昭和のBGMを会場で流し続けてくれた、「CD世代なのにアナログレコードに魅せられた男」、TGレコーズ辻健蔵さんのプレゼン

後半プレゼンテーション、一番の注目は
「生きテク」オキタリュウイチさんのお話

その後、同じくサイト上で“生きづらさ”と向き合う
「生きるアシスト.com」の和田一郎さんと
オキタさんに、課題を語り合ってもらいました。

「お坊さんと話そう!@渋谷Li-Po」第2回を、2012年2月26日(日)18時~開催します。

「本当はお坊さんになりたかった」オキタリュウイチさんと、松本智量さん、平井裕善さんで
「自死について~お寺がセーフティネットになれる可能性」(仮題)について語り合っていただきます。

さらに、2012年6月には、「お坊さんと話そう!@Li-Po」第3回として、
『「捨てる!」技術』などの著書で知られる辰巳渚さんとお坊さんとで、
「物欲について」語り合っていただく予定です。