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生きづらさと向きあう任意団体

お坊さんと話そう!第3回「物欲について」

 この催しは、
2012年6月24日 18:00~
開催しました

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ジャグリングもできるお坊さん=真言宗の増田俊康さんと、「八王子という都会からやってきました」という浄土真宗の松本智量さんにお越しいただきました。

そして、家事塾主宰、『「捨てる!」技術』の著者で、「物と人との関係」と真剣に向きあってきた辰巳渚さんが、物欲について、お坊さんと語ります。

 会場風景

増田俊康 真言宗は、なにをやってもOKな宗派なので、“お坊さんは節制するんだ”というようなお話を期待されていますと、少し違ったことになるかもしれません(笑)
父は普通のサラリーマンで、お寺に住むようになった(住職になった)のは5年前です。今日は、柏でマジックショーのお手伝いをしてからここに来ました。暇な寺でございまして、土日も法事をしているよりは、いろいろなことをしているほうが多いです。

松本智量 浄土真宗の松本です。住職歴がかれこれ29年になります。うちも物欲を抑えろとはいわない宗派なので、今日の主旨に合っているのかどうか……。

増田松本

Okei 事前に資料をお配りしていますが、お二人とも、「(常時)節制し続けていなくてもいいんじゃない?」というお考えです。今日は、「仏教は清貧じゃないかも(?)」というところを突きつめてみようかなと。

辰巳さんは捨てることについて書いていらっしゃいますが、第1回の「お坊さんと話そう」に来てくださって、「物って次から次へやって来るよね、その事についてお坊さんはどう考えているんだろう?」と。そう言ってくださったのが、今日の企画の始まりです。

まずは辰巳渚さんから、活動のご紹介と「捨てる」ことについてお坊さんにきいてみたいポイントをお願いします。

 

辰巳渚 私は物欲まみれの人間で、物にものすごく執着するからこそ、集まってくるものとどう向き合おうかということを常に考えているわけです。

もとはパルコでマーケティング雑誌に配属されて、バブルのまっさかり、まさに物欲まみれなところでマーケティングを専門にしてきました。勝さんともパルコの同僚でした。2000年に本を書いたんですが、マーケッターは物をつくるところからしか発想しちゃいけないんですね。たとえば化粧品を開発するのに、「化粧品って要らないんじゃない?」っていうところからはスタートしない(笑)

だから逆に、片付けができない私としては、そもそも要らないんじゃないの?  というところから考えてみよう、という感じでした。

片付けブームはもう20年くらい続いてますかね。10年前、本を書いたときは、「要らない物は、捨てちゃっていいんじゃない?」って言うことに勇気がいりました。

でも意外と、反論は、ほとんどなかったんです。
「捨てちゃっていいんですね!」
「背中を押してもらえた気がします」
と言っていただくことができました。

 

(辰巳渚さんから、パワーポイントを示しながら【捨てるから考える、物と私の関係性】について20分間発表いただきました。以下は、その要点メモです。)

分別の方法を覚えても、捨てられない。

物を捨てること、っていうのは心の問題と関わっている。
もったいない、っていう言葉で封印されるところが大きい。

かつて、物は貴重だった。
大量生産大量消費になる前、物はさいごまで大事に使われた。

高度経済成長、バブル期と移行するなかで、必要だから買うのではなく、新しい=いい物だから買う、という、物が溢れる時代となった。

消費そのものが求められる時代。

あまりにも急速にやって来た時代の変化のなかで、捨てたくても捨てられない呪縛のなかで多くの人が苦しんでいる。

だけど、物と向き合っている人の部屋をみれば、その人らしい、ってわかる。

物とコトによって生活を整える!=家事塾。
要らないものがある生活って苦しいよね。

捨てたいけれど捨てられない気持ち、をどうするか。

物には二つの側面がある。
必要だから買う、という実用的な面。
そして、文化的な側面。

物は、思い出と繋がっている。
自己表現でもある。

持っている物は、私が使う物。
私の個性。

 

辰巳 物との関係性で、人は生きているんだなぁ、と思う。
人間は、人との関係性で悩む。けれども、同時に物との関係性でも生きている。
シンクを磨いたらピカピカに輝いてくれた。気持ちもよくなった。
物欲というより、物を通して感じ考える時代だよね、と思います。

Okei 私のなかでの課題は、大量につくって大量に消費するやり方では、設計図が東南アジアにながれた後のいま、日本のデフレは終わらない。ここにしかない物をつくらないと。そういうことに興味が向いた時点で、辰巳さんと再会しました。

 

【今日の課題】

・物との関係性を見直し、捨てるかどうかを考える。
・仏教は、じつは物欲があってはいけない、とは言っていない。

 

松本  物欲を否定する傾向の言い方をする宗派もあります。曹洞宗は、比較的禁欲的な表現をします。でも、仏教というのは本来、否定ということをしないんです。
禁止、批判を示さないのが仏教。何が正しいっていうことを提示しない。ただ、「あなた苦しいでしょう?」と言うだけ。
仏教でまずいのは、とんよく=貪り、なんです。三大煩悩で、しんよく=怒り、ぐち=物事を誤ってみる、と並んで、とんよくがあります。むさぼることによってあなたの命はどんどん削られていくんですよ、と。

増田 そうですね、仏教ってなにかというと、仏さまの教えと、仏になるための教えです。
悟りを開くために修行をしたり(浄土真宗以外)、邪魔になる物は持たなかったりします。
ところが、大日如来はアクセサリーをたくさんお付けになっているんです。必要だからつけているんでしょうけれど。
私たちは、欲がないと、「仏になりたい」とも思えないんです。
悟りたい、世の中をよくしたい、というのは大欲といわれ、もっていい欲、意欲です。
ゲームや携帯を買い与えておいて、1日60分て言ったでしょう! って、なければ楽なのに、とか。

Okei  コレクションで、文豪誰それと同じ万年筆! といってお金をためて持つ、というのはわかるんですが、どこかでたががはずれてそれが高じて数を集めたり、使いきれないのに集めつづけるようになっていく、その境目はなんなのか。

辰巳 私もコレクターでして(笑)  50本の万年筆に囲まれて幸せ、っていうのと、たった1本のお気に入りで幸せを感じるのと、両方あっていい、と思います。

Okei どこからが、とんよくになるのでしょうか。

松本 それはどちらも、とんよくではないですね。苦しめられるからとんよくがいけないのであって、幸せであればオッケーではないかと。

所有欲ってあるじゃないですか。僕のなかでは、使う欲ってあまりなくて、買って満足したり、持つことで満足したりするんです。物欲にはどれも含まれるかなと。

Okei  楽しんでいるうちは、貪欲ではない、とありました。元々他人であった家族の場合に、どこまで許容するかという問題があると思います。
とくに子どもの場合、所有欲を全部満足させることは経済的にも物理的にも無理だということを教えていかなければならない。
自分の机の回りは好きにしていいよと決めてあっても、リビングとか共有の場所もどんどん個人の物で溢れてきたときに、私自身は所有欲が低めなので、私に合わせろといったら大変だろうなと思うわけです。それである程度大目にみていると、足の踏み場もないようなものすごいことになっちゃう。
その辺の折り合いが大変なので、家事塾に通わなきゃなと思ったりしてます(笑)

辰己  物との関係って、人間関係でもあるんですね。
たとえば、捨てたいけど捨てられない物。
英会話の教材とか。身に付けようと思って買ったけれど、まだ身に付けてない自分が居る。捨てたいけれど、持ってればいつか身に付くような気がしたり。
人が物について迷うのって、人との関係性だったりします。
抽象的になっていくと苦しくなるけれど、物についてつきつめることで、何で苦しんでいるのかがクリアになったり。
物との関係性をとおしながら、家族や人との関係性を整理していく、ということをやっていきたい。

増田  お釈迦様も自分の子どもに障害という意味の名前をつけています。ホントなんですよ。たとえば、子どものつくった折り紙が捨てられない、というときに、子どもを大事にする母親でありたい、という思いがある。ところが、ほんとにいいお母さんである、という納得が自分のなかにあれば、折り紙もとっておく必要がなくなるわけですよね。
葬式でいえば、、86歳でなくなったおじいちゃんが、たった1個のお位牌になっちゃうわけですよ。真言宗では阿字観といって、種みたいなものから宇宙へと繋がっていきますが、宇宙と繋がっちゃえばもう、物はいらなくなる。

Okei お寺さんがもうちょっと、高尚な法話でなくて、そうした漠たる人の苦しみをとくようなことを常日頃から考えてくださっていたら、増田さんのような話を何気ないときにしてくださったら、「坊さんにぼったくられた」と考える人も減っていくと思うんです。
ところが、そういった人間関係の苦しみをとく方法について考えているのが多くのお坊さんではなく、辰己さんのほうがよっぽど考えていたりする。
お坊さんも、もうちょっとそっちへスイッチしていけたら、と思うんです。

辰己  私は、この時代に生きてる一人の人であろうと思ってるんです。子育てしてれば一人の母親であって、教育者とかではない。地に足をつけた一人の存在でいたい。
お坊さんについていえば、物を買うときに「買いたくなっちゃうよね。でもね…」という話をしてくれるお坊さんなら、信じられるなと。

逆にお伺いしたいんですが、宗教者として、「あなた苦しいでしょう?」というときに、その苦しさというのはお二人にとってはどういうものなのでしょうか。

増田 まぁ、普通の人間関係と同じで、まず初対面ならご機嫌でいたいな、とは思います。自分が楽しそうでいるようにしたい。「いっつも修行してますよ」みたいに険しい表情をするんじゃなく。

松本 そうですね、自分のしたいことをできる状態でいたいと思います。坊さんというのは、答えを出すときもありますが、じつは媒介でしかない。

Okei じつは、「答えを求めてる人がすごく多い」というのが、そもそもお寺と一般のかたのズレになっているんじゃないかと。

答えをくれないのがお寺なのに、答えを求められる。正直に答えようとすると、なんだか高飛車な法話になる。響かない。
占いは、ズバリ答えをくれますよね。だけど占いがくれる答えは「あなた(だけ)が幸せになるための答え」であって、世界や宇宙とのつながり感は、ないんです。
それでは救いの感覚も長続きしないから、次々と占ってもらったり、天然石を買い続けたりしないといけない。そういうところを超えた安寧をめざすのが宗教。
そこからさっきの万年筆の話を考えますと、会ったこともない文豪とのつながりを感じて手にすれば貪欲ではない、それが50本に増えても、そうしたつながり感を持てることで幸福感を得られるならいいのではないかと。

松本  その通りですね。欲を主体的にとらえると、自分の思い通りにしたいという欲、自分の絶対性を疑わない欲は、あなたを縛って苦しめるんですよと。
欲、ということを仏教で否定的にとらえることがあるとすれば、そういうことですね。

Okei いまのところから、さっきの家族との関係性に持っていけそうな気がしました。
信頼感があれば、ある程度物を減らせるかもしれないという話。それと、相手がいやがるほど物を持つ=自分の絶対性を固持しているということ。

辰己 いまの答えもそうだなぁと思いながら、ちょっと引っ掻き回します(笑)
ふだんワークショップとかやりながら物との関係性を考えていくときに、うまくいってないところを素材にするとやりやすいんです。
ソファーの上にいつも夫のコートが脱ぎ捨ててあってイライラするんです、とか。キッチンカウンターの上がゴチャゴチャで、とか。
そこで何が起きているのか、なにが嫌なのか、をみていくんですが、何が起きているかを見るのが苦手だし、辛い人が多いんだなと感じるんです。
朝起きると夕べ夫が飲んだビールグラスと輪染みとナッツの殻が残っているんです、と。それがどうしてそうなるのかを、ビデオで撮って台本に起こすみたいに経緯を書いてみようよ、と。

私と子どものご飯が終わり、きれいに片付けます。11時くらいに夫が帰ってきてお風呂に入ります。風呂上がりに自分でビールを出してきて飲みます。いい気持ちになって、缶とグラスとつまみのお皿をそのままにして寝てしまいます、と。
そういうふうにすると、あぁ、まず夫と寝る時間がずれているからだな、とか、見えてくるじゃないですか。

ところが皆さんがどう書くかというと…
「私と子どものご飯が終わります。本当は一緒に食べたいんだけれど、夫が忙しくて11時くらいにしか帰ってきません。ほんとは待っててあげたいんですけど私も疲れていて。飲んだグラスはキッチンに下げておいてとお願いするのに、そこさえやってくれたら洗うの楽なのに、やっておいてくれないんです」
と。

要するに、こうしてほしい、本当はああしたい、というフィルターを通してしかみられなくて、「ビールのグラスが朝、置いてある」ということを言わせるのにすごく時間がかかるんです。
ビールのグラスが置いてある事態をなんとかしなきゃいけないのに、そこに行き着くのにすごくたくさんのプロセスが必要なんです。
私は、いまの苦しさというのは、そこにあるんじゃないかと思ってるんです。
あるべき自分と、現実の自分が、あまりにも、かけ離れている

あるべき自分に、とても現実味がなかったり。ブログに「こうありたい自分」を書くけれど、365日そんなふうにはできていない私、とのギャッブに苦しんでいたり。
みんな、できない自分を肯定できないなかで、向上心とか意欲をどう健全につくっていけるのか。

Okei お坊さんがそこを提示してくれたら、みんなは喜んでお布施を払ってくれるようになるのかなと。

 

このあと休憩をはさんで質疑応答となりましたが、終わってからの松本智量さんのひとことが、じつに印象的でした。

「辰巳渚さんのほうが、よっぽど宗教的に深いこと考えてる。辰巳さんこそ、ほんとの仏教者だ!」