お坊さんと、常識を覆して生き生きしよう!

「戒名ソフト」についてどう思われますか?

各宗派のお坊さんに聞きました。
戒名ソフト、使う? 使わない??

8月2日にasahi.comで、「戒名ソフトを使うお寺が増えている」というニュースが流れました。

戒名選びもパソコンで… IT化の波、仏教界にじわり

故人の趣味や職業を入力すれば、ふさわしい戒名(法名)を提案してくれる。そんなパソコン用「戒名ソフト」を利用する寺が増えている。仏教界にじわりと広がるIT化の波。背景に何があるのか――。

これを機にOkeiが、知人僧侶+葬送コンサルタントの女性1名に尋ねてみました。

・戒名(法名)はどのようにつけられていますか?
・戒名ソフトについて報じたこのニュースへのご感想

なお、記事内容は宗派を代表しての公的なご意見ではなく、私が個人的に意見交換させていただいた内容ですので、ご発言いただいたかたについては宗派のみ記載の匿名とさせていただきました。


(日蓮宗 東京都)

故人の声なき声をうまく戒名に活かせたときこそ、僧侶の醍醐味

「戒名ソフト」は使っていませんが、「戒名字典」はヒント程度に使います。

でも、戒名をつける決め手は、故人とのつきあい方だと思っています。

故人とつきあいが深い場合はそれなりに、また、つきあいが浅い人の場合すぐにピンと来なければ、枕経・通夜とおつとめの中で対話をして、ぎりぎり葬儀まで考えることもあります。

何も考えずにひらめいて決まることもあります。

自分でもいい戒名をつけることができたなと感じたのは、何の説明もなく戒名を書いた位牌を遺族に初めてお見せしたとき、いきなり息子さんや娘さんが泣き出して、「親父だ―」とか「わーお父さんだ」といってくれたときです。

遺族との会話や遺品を拝見した印象やらいろいろ悩んで、まさに故人が語りかけてくださる声なき声を

受けとめられたなと感じられた瞬間です。

これぞ、僧侶の醍醐味です。

家系や社会的実績をわきまえて、文字数や信士居士の選定をしますが、あまり重要視していません。

いくら居士大姉をつけても、以後の供養の中でいずれメッキがはげていきますが、
その人にふさわしい文字はきらめいていきますから。

百年・千年前の人が生きた証として、現代に残っているのは、墓石に刻まれた戒名だけです。

IТ化が進み電子化された生前の膨大なデータが残ったとしてもハードのシステムが崩壊すれば後世の人が見ることはできません。

千年後の人たちに残せるメッセージは、墓石に刻まれた戒名だけとなるだろうと、心して戒名をお付けしています。


(真言宗豊山派 千葉県)

私が施主なら、ソフトで戒名をつける住職には「僧侶の資質や寺の日頃の活動などを入力すると、お布施の額がでてくる『お布施ソフト』で計算された金額です」と言ってお布施を渡します

戒名ソフトはおそらく一般の業者が提案するものですよね?

(こういう報道を見ると)「ホント、バカにされているし、期待されていないんだなあ」と感じます

私はうちの宗派で出している「真言宗法要文案」という本を大いに参考にして、漢字それぞれの意味は漢和辞典を大いに利用しています。
(戒名の意味と選字の理由を印刷して毎回法要前に施主に渡しています)
ソフトはたまたま手元に無いので使っていません。あれば使うと思いますが、今のところ特に必要を感じてません。
通夜葬儀の際に「ふじゅ文」という文章を読み上げるのですが、故人の略歴や趣味・性格などを入れるため毎回、必ず違うものを作成してます。

しかし!

戒名ソフトを使いこそはしませんが、ワードで作っているので、「パソコンソフトを使っていません!」とは言えません。はい。
檀家管理ソフトもたまたま持っていないから使っていないだけで、手元にあったら便利に使う事でしょう。

ちなみにエクセルで管理しているので、「パソコンソフトを使っていません!」とは言えません。はい。

戒名を考える能力が無いからソフトを使うという僧侶がいたら、まあ、仕方ない
かな、と。そういう人を住職にしてしまうこと自体が問題なので、ソフトとは別問題
になります。
時間が無いから、楽だからソフトを使うという僧侶がいたら、空いた時間を有効に、自分以外のことの為に使って欲しいな、と。

私が施主なら、ソフトで戒名をつける住職には「僧侶の資質や寺の日頃の活動などを入力すると、お布施の額がでてくる『お布施ソフト』で計算された金額です」と言ってお布施を渡します(^^)


(真言宗豊山派 東京都)

仏教の知識と経験がある人がつけないと「仏の弟子」じゃなくなっちゃう

私は、戒名をつける時には、

①「戒名辞典」–教典群の中から、意味のある二字を五十音順に配列したものや歴史上の人物の戒名も出ています。

②「仏教語辞典」–仏教語の意味が出ています。上記の辞典の中で、「おっ、これはいいかもしれない」と思っても、その仏教語の意味がわからないと仏の弟子としての目標となる名前として授けられないので、使います。

③「密教語辞典」–真言宗の弟子になるのだから、これもチェックが必要です。

④「漢和辞典」–自分の思い込みで良さそうな字を使っても、その字の語源が相応しくない時があります。「花」と「華」では、ニュアンスが大きく異なりすから、こういう場合に、それぞれの字の解字を参考にします。

⑤「国語辞典」–たまたま使った字が日本語にもあるような場合、その本当の意味をしるための参考にします。例が適切ではありませんが「姥桜」(うばざくら)という
言葉は、「年を取っても色気のある人」という、いい意味が第一義なんです。

というように、最低3、4冊の辞書を開いて、戒名をつけます。

小学校の時に「自分の名前の由来について作文を書きなさい」と言われた経験はどなたもあるでてしょう。
坊さんは、新しい仏の弟子の名付け親です。だから、その名前に託した思いを説明できないといけないんです。それも、ペンネームではなく、仏の弟子としての名前ですからね。仏教の知識と経験がある人がつけないと「仏の弟子」じゃなくなっちゃう気がするんです。

近所のお酒好きのご主人は、自分で「泥酔院熱燗五合居士」(でいすいいんあつかんごんごうこじ)という戒名ををつけ、酔うと話好きになる友人にも「虚言院多弁饒
舌信士」(きょげんいんたべんじょうぜつしんじ)という名前をつけました。
この話はご本人から法事の後席で、お互い酒が入った時に、聞いたのですが、その時は、大いに笑いましたっけ。
これはこれで、ユーモアたっぷりで、放っておけばいいのですが、残念ながら仏教
徒の名前としては相応しくないですね。あはは。

戒名自動選択ソフトも、1万円以内なら買うでしょう。そして、上記の辞書群の仲
間入りをさせるでしょう。


(真言宗豊山派 埼玉県)

戒名ソフト。自分としては論外です

理由は品がないから。

プレゼントがなぜ嬉しいかといえば、その物自体よりも、送り手が自分のことを考えてくれたという事実があるからではないでしょうか。
戒名ソフトにそういった思いが入り込む余地があるとは考えられません。
仮に故人が見ず知らずの方であっても、浄土で健やかに暮らして欲しいという気持ちがあればポンポンとキーを入力する気になんかならないと思うのですが・・・。

因みに戒名をお授けするにあたっては、戒名が故人の背景や人柄を表すものなら、一生をかけてお檀家さんと密な関係を構築していくことが最も大事なことだと考えます。
それに加えて仏弟子の名前でもあるわけですから、付ける僧侶側の資質、教養もとても重要になります。
諸辞典を参考にするのはもちろんのこと、『真言宗法要文案』に「その戒名を見れば菩提寺の住職の教養がすぐわかるので(中略)恐ろしいことである」と記されていることからも漢詩や季語にまつわる知識も吸収していきたいところです。


(曹洞宗 東京都)

時間と労力をかけて、故人のご生前のことや願い、ご家族からの願いをしっかりと汲むように心掛けることが大切

「戒名ソフト」は法類(同宗派の僧侶)に使っている人がいました

沢山の墓地を分譲して檀家さんが増えたのは良いけれども、遊びも盛んな人で、
戒名を考える時間もなくなってしまったらしいです。

法類ということもあり、遠慮なく「そんなの檀家さんは喜ばないだろうな」と伝えると、
本人もそれは承知しているようで、「だからといってこれで良いとは思っていない」(?)とのことでした。

でも、意外と良い戒名が出来るようでして、檀家さんも喜んで下さる(本人談)ようです。(ソフトで作っていることを知らないからでしょうが

初めは私も「こりゃ簡単でいいなぁ」なんて思っていましたが、当然、故人との関係から感じられたことまでは汲み取ってくれないわけで、便利ではあるけれども、頼ることはできないものなのかなぁと感じております。

私が戒名作成に使用してるのは、大字源、仏教語辞典、正法眼蔵、永平広録、
碧巌録、従容録、等々、想像を働かせるのに頼れるものが沢山あります。

その方の性格や、私たち(ご遺族も)からの願い、そして仏の世界を伝えられるように読み下しも添えて差し上げると、とても喜んで下さいます。

やはり、時間と労力をかけて、故人のご生前のことや願い、ご家族からの願いをしっかりと汲むように心掛けることが大切だと思います。


(浄土宗 神奈川県)

コンピューターが私の思いやニュアンスまでプログラムできるとは思えない

ニュースで見た70代の僧侶の言い分では、
「知っている人の戒名はまだしも、知らない人の戒名は思い浮かばない」
とのことですが、であるならばその人を知れば良いのではないでしょうか。

枕経に行った際にトコトン故人の話しを聴くなり、どうしても時間が無いなら電話で聴くなり、自分が納得できるまで話を聴けば良い話です。

「ご主人様は○○な方だったのですね。」とちゃんと確認しながら話をしていけば、
たとえ住職が戒名を考えるセンスの無い人も遺族は理解してくれるはずです。

今まで会ったこともないお坊さんが通夜の場に突然現れ、「これがご主人の戒名です」といくら素敵な戒名がでてきても「さすがプロだ」と思われるかもしれませんが温かみは感じられません。

私の寺で以前、檀家さんと戒名について話をする会を開いた時、自分や配偶者の戒名を考えてみましょう、という試みをしました。
言っては何ですが、皆さんやはり上手く出来ないのです。
勿論、仏教の言葉も知らないのですから仕方がありませんが、全体としてやはり法香が無いのです。

自分以外のお坊さんが付けた戒名を施餓鬼法要などで目にすると、そのお坊さんの人柄や仏教観のようなものが見えてきてとても興味深いものです。
私の先代の住職も私とは少し雰囲気が違います。
そこには戒名を授ける人の祈りや願いも込められています。

私は、戒名はこれからの出家の名前として経典や仏教的な言葉を用い、道号などには俗名の一文字や人柄が感じられるようにものを授けます(道号、戒名、含め全体で表わすこともあります)。

遺族の方には、
この位牌に記された戒名(道号・戒名全体)は、故人さまの過去、現在、未来~三世~があるのです。
つまり、共に歩んだ過去からの縁は決して途絶えるのではなく、これからは仏の世界より我々を導き、見守ってくれる方となって新たな関係性を結ぶのです…
というよう戒名を説明します。

勿論、これは我流の戒名観なのでしょうが、それをも含めコンピューターが私のそのような思いやニュアンスまでプログラムできるとは思えません。

僕は字が下手なので、卒塔婆の印刷機が欲しい!と思うことがありますが、檀家さんからすれば下手でも良いから住職が書いてくれ!と思うそうです。

「どんな戒名を」「どんな風に」「誰が」考えるのかではなく、「誰が」「どんな思いで」「どんな戒名を」が大切なのではないでしょうか。
葬儀を含め、寺と檀家、或いは葬儀を通じて初めてお会いする家族などとの関係において、何が一番大切なのかと言えばそれはお互いの信頼関係ですよね。

お寺と檀家や遺族のトラブルの殆どは、コミュニケーション不足に起因するものが多いのではないでしょうか(多くのトラブルがそうであるように)

戒名を授けるというのは、そういう意味では最も住職が気持ちを込めて行うことの一つだと思います。
それを人任せ(いや機械任せ)にできるというメンタリティが私には分かりません。
一生に一度しかない死に直面した人たちを前にして「本山の会議」がどれ程の価値があるでしょうか。

「知らない人だから」「時間が無いから」ソフトを使う、では本末転倒です。

故人を知る努力をする、時間を作る、それがお坊さんだと思っています


(浄土真宗 東京都)

ソフトを使う使わないよりも、戒名なり法名なりを間に、僧侶と檀信徒が何を語れるかが問題

ソフトやその使用の善悪は後にして、まず浄土真宗の“法名”についての事情を申します。(浄土真宗には「戒名」はありません。「戒」がありませんので)

浄土真宗の法名には原則としてその方のお人柄・性格・職業はおろか性別までも、また俗名さえ反映されません
法名は「法である名前」「名前の形をした法=教え」であり、
名付けられた方の何も示すものではないからです。

これは例えば赤ちゃんに名付けることを考えればご理解いただけると思います。
生まれたばかりの赤ちゃんに付ける名前はその子の性格や人柄や職業や人生が反映することはありません(性別は考慮されるでしょうが)。
そこにあるのは親の願いです。

法名を受けるということはまさに仏弟子の誕生です。
ですので、当人の何がどうこうではなく、仏の願いが名前として授けられるわけです。

これは法名をいつ受けるかということにも関係していて、浄土真宗では死後に法名を受けるのは例外であり、原則は生前に受けるものとしています。
※ですので「生前法名」という言い方は存在しません。
まあ、「死後法名」という言い方もありませんが。
また、現実には例外の方が圧倒的に多いのも事実ですが)。
死後に法名を受ける場合、その法名は、残された縁者に対して法を伝えていく役割となります。

正式には、本願寺もしくは別院にて門主またはその代理から「帰敬式」という儀式を受けたのちに、「釋○○」という3文字の法名を受けることとなります。

「帰敬式」の懇志は1万円です。
尚、
浄土真宗には「釋○○」以外の法名はありません。
ただ、頭に院号をつけることはありますが、これは本山に
20万円以上の懇志を収めた人のうち、希望者に授けられる記念品です。
俗的なものであり、宗教的な意味からは区別されます。

本山からいただく法名は経典や聖教から選ばれますが、原則は何が選ばれるか分かりません。ご縁です。
尚、希望の文字を受けることもできます。その場合懇志は5000円アップとなります。

一般寺院で法名を付ける場合も上記に準じ、寺院住職は門主の代理として法名を授けます。
法名料はうちではいただいていません。本山でさえ儀式込みで1万円ですから。

私の場合は俗名をそのまま法名に使う場合も多いです。
これは、法名に親しみを持ってもらうとともに、今まで使ってきた俗名は仏教的観点からするとこういう意味があるんですよ、という意外な転換を期待もしています。

そこでやっとソフトの件になるのですが、本願寺でやっていることは悪意でみればソフトを使う以上に適当です。
あらかじめ選んだ言葉をただ配っているだけですので。
しかし私はそれをいけないことは思いません。
あらかじめ選んでおいた言葉はどれも法の凝縮ですので、縁にしたがって授けられるというのはある意味潔い気がします。
どんな名前が欲しい、なんて貪欲と見ることもできますし。

だから、ソフトを使う使わないは問題ではなく、戒名なり法名なりを間に、僧侶と檀信徒が何を語れるかが問題なのでしょう。
浄土真宗の場合は特に、
法名は結果ではなく始まりです。
名前からいかに法を深めていただくか、そこに同行できるかが僧侶に問われています。

私にしても、上記に長々と書いたことが私にご縁のある方にちゃんと伝わっているかははなはだ心もとないところではあります。


(葬送コンサルタント 東京都)

戒名をつけるのもお坊さんの修行

戒名ソフトの存在は数年前に知りましたが、知った時はとんでもない、不快であると感じました。「電子辞書」のような使い方をするのであれば、類義語を一発検索できるのでしょう。でも、やはり戒名ソフトはその成立からの意図が違うので、
導入自体に、やはり嫌な感じがします。

これには、宗教はそういうものではないという願いと共に、やはり、一般感情としてお布施が絡むと思います。
一般人にとって「お布施」の存在は日常をかけ離れているのです。

30万包むのが簡単な家もあるかもしれませんが、平均的には一ヵ月分のお給料を包むことにどれほどの気持ちの葛藤があるか、あまり分かっているお坊さんがいないと思います。

テレビによると、サラリーマンのお昼ご飯は500円以下。
30万もあれば子供たちに、これもあれもしてあげられるのに、家族旅行さえできないのに、という家庭ではお坊さんの態度ひとつで簡単に「恨み」に転じることもあるのです(相談の中で、どれだけ恨みを聞かされたか)。
檀家として、お寺といい関係を保つ家庭はごくごく、少数です。

それを「ありがとうございました」と言われる戒名とお勤めで全て溶かすのがまた、お坊さんでしかできないことなのでしょう。

戒名をつけるのもお坊さんの修行なんでしょうね。
適当につけると、後ろから見えないハリセンが飛んでそうですね。

また、ここにはいないけど、熱心につけているお坊さんでも、一歩間違えると知識をひけらかした戒名だったり、自己満足の戒名だったりすることもあるかと思います。


戒名の重要性は、戒脈を示すこと

たぐち和尚(臨済宗 長野県)

私個人は、このようなソフトは必要性を感じません。

普段は、新字源、仏教辞典、禅林句集などを使いますが、特に不便さを感じません。
戒名で大切なのは、戒脈を示すことだと思っています。

授戒師を介して仏弟子となったのですから、誰の法孫となったのか戒脈を示さなければならないと思います。

私は、私を含めた86人の僧侶を介して、釈迦牟尼へとつながっている系図をお渡しします。
日本で最初に戒名を授かったのは、聖武天皇だと云われます。
授戒師として鑑真が招かれたそうです。
鑑真は幾多の苦難を乗り越えて来日し、天皇はやっとの思いで授戒したのです。
授けられたのは「勝満」の二字だとのことですが、仏弟子としての証を受けた聖武天皇の感慨はいかほどだったでしょうか。

戒名を授けるということの本来の意味を、忘れないことが大切だと思います。


まとめ(Okei)

ソフト導入に違和感がある人もいれば、補助的には参照してもよいというご意見もありました。

それは、一般のかたの側も同じではないかと思います。
「え、お坊さんが戒名ソフト?」とザラッとくる人もあれば、中には、「いいんじゃない? どっちみち、名前一文字になんか仏典から適当に(失礼!><)もってきてるだけでしょ」なんて思っている人だって、いるかもしれません。

浄土真宗の「法名」のお話にはまた、深いものがありました。
上記、「ソフト反対派」と「あってもいい派」の両極端をつなぐお話になっていたのではないかと思います。

ソフトを利用したにせよなんにせよ、「その字をいただいたご縁」ということについて
“考えるきっかけをいただけた”ことが大きいのですね。
そして、その戒名・法名をいただいたきっかけを活かすか活かさないかが、大きな問題なのでしょう。

それを活かせるようにとお導きするのが僧侶の任務のひとつでもあるのかもしれません。

脱線の私見ですが、浄土真宗は、キリスト教(プロテスタント)ととてもよく似ている気がしました。
キリスト教のお葬儀も、お花代程度と献金はわずかと聞きます。
そして洗礼名は通常生きているうちに(生まれてすぐとか)授かり、聖書に出てくる偉人の名がそのままポンとつけられることが多いようです。
長い長い聖書を読むとき、自分のミドルネームになっている人のところは親近感をもって読むことができるかもしれません。
そんなミドルネームとの“ご縁”から、「教徒としての一歩」が踏み出されてゆくといえるのではないでしょうか。

全体としては、やはり、ソフトを使う、使わないということよりも、人と人とのコミュニケーションが成り立っているかどうかが重大問題、ということで一致していたと思います。
僧侶と人との、あるいは檀家さんのなかでも先代と息子さん娘さん世代との「向き合いかた」に大きな問題があるということなのでしょう。
これは、戒名ソフトだけでなく、ニートの問題、自死の問題、教育の問題、ありとあらゆる現代の問題に通じることでもあると思います。

この記事を書いた人
『いいお坊さん ひどいお坊さん』(ベスト新書電子版, 2011)、『心が軽くなる仏教とのつきあいかた』(啓文社書房, 2017)ほかの著者、勝 桂子(すぐれ・けいこ)、ニックネームOkeiです。 当サイト“ひとなみ”は、Okeiが主宰する任意団体です。葬祭カウンセラーとして、仏教をはじめとする宗教の存在意義を追究し、生きづらさを緩和してゆくための座談会、勉強会を随時開催しています。
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