お坊さんと、常識を覆して生き生きしよう!

【番外編緊急座談会】九州中部地震・支援体験を語らう

2016年5月10(火)@福岡市・妙徳寺

九州中部地震から3週間。支援活動に参加した宗教者など十数名で、感じたことや課題を持ち寄り、今後の中長期の支援に向けた活力を養う場となればと、妙徳寺さまのご厚意により緊急座談会を実施しました。

参加者=大津顕教(テラ・ネット/浄土宗龍華寺)、堀田顕英(テラ・ネット/浄土宗常福寺)、永石光陽(日蓮宗常妙寺)、吉田武士(浄土宗長安寺)、平川義雄(曹洞宗大弘寺)、高岸宗範(曹洞宗陽興寺)、宇賀一丈(曹洞宗永福寺)、石川俊英(曹洞宗慈眼寺)、石川裕彰(曹洞宗慈眼寺)、定直寛典(曹洞宗東前寺)、菰田大孝(曹洞宗大円寺)、森 裕二(国松石材店)、渕 丈嗣(曹洞宗妙徳寺)+Okei

九州中部地震での支援報告

ひとなみでも、震災直後から支援状況について情報収集をしました。
全日本仏教青年会の救援委員長となった吉水岳彦さんから、支援状況についてのレポートや、公益財団法人プラン・ジャパンが発行した小冊子「被災者の心を支えるために―地域で支援活動をする人の心得―」(改訂版。リンクよりダウンロード可能)をご紹介いただき、当日の配布資料としました。

最初の揺れから3週間。お集まりいただいたかたの約半数がすでに1回~数回の現地支援を体験されていました。残り半数のかたも、「これから何かしたい」という志のかたばかり。

住まいを失った人、身近なかたを突然に亡くされた人にとっては、数年以上にわたる息の長い支援が必要であり、震災支援は動きが早ければよいということではありません。ことに宗教者による支援は、メンタルな面やご供養にもかかわるので、むしろ中長期サポートに重きがあるともいえます。

今回の震災支援では、曹洞宗青年会も最初の揺れ当日から現地入りし、また1995年の阪神淡路大震災後に九州の浄土宗僧侶を中心に組織された「国内国際教育支援団体」テラ・ネットが浄土宗青年会ともうまく連携して、当初自衛隊の手が回っていなかった地域への迅速な物資供給を行うなど、これまでの震災支援での経験が活かされた報告がありました。

阪神淡路大震災、東日本大震災での支援活動を体験したかたの発言からは、ここ20年間で、宗教者に対する一般のかたの印象や評価も大きく変化したことが明確に感じられました。

Okei テラ・ネットの大津さん、状況はいかがでしたか。

大津 4/14の最初の揺れの翌朝6時過ぎに、会長の堀と出発して(佐賀県鳥栖市から)、大渋滞のなか10時ごろ現地に着きました。益城町には支援物資が来ているが、その南側はまったく届いていないという情報があり、御船町にペットボトルやおむすび400ずつ、飴やチョコレートなども運びました。男手が足りておらず、翌日の雨予報に備えて、独居の高齢者の家の屋根にブルーシートを張ったりしました。その後、情報を集めたりして15日の夜に自坊へ戻ったら、夜中に本震。
妻の友人が熊本市内の寺の若奥さんで、ご自坊もかなり被害が出て避難所に入っているとのことでした。16日時点で「小学校に400人くらい入っているが、市に問い合わせても何もかも遅い」と。早急に水やトイレットペーパーが必要とのことで、週末に車満タンにトイレットペーパーを補給し、週明けの18日に運びました。市に問い合わせて「わかりました」と言われてからの反応は数日待つようで、日々変わる現場の様子に対応できていない様子でした。

渕 行政の炊き出しは存在したんでしょうか。

堀田 自衛隊の炊き出しはありました。南阿蘇に入ったとき、自衛隊の炊き出しの様子を聞きましたが、ゴッチ飯、ものすごく大きいおにぎりだったので、われわれのおにぎりは「食べやすい」と言われました。

平川 おにぎりを作られたのはどなたですか?

堀田 秋月の仕出し屋さん「しか鮨」の大将です。はじめの500パックは「被災地へ運んでもらえないか」と提供してくださいました。次の 1000 パックは朝倉観光協会の事務局長が個人的に「おにぎりを作る人がいます」、「運んでくれ る人がいます」、間で「おにぎり代を僕に包んでください」と Facebook でつぶやいてくれて、なんと 20 万円が集まり、用意することができました。

Okei 民間のほうが早いんですね。

堀田 きのうはヘルメット200が必要ということでした。余震で照明が揺れ、避難所でも落ち着いて過ごせないから、ヘルメットがほしいと。

大津 これもすぐに140くらい集まり、数時間で200に到達しました。

堀田 宇城市の市長さんが、自分で呼びかけたりしていました。

渕 何がない、とマスコミで報道されると、そればっかりが全国から大量に送られるわけですよね。ニーズはどんどん変わっていっているのに。今回は、東日本と違って原発事故も津波もなかったことで、変化も速いような気がします。それに対応するというのは大変なこと。細かいことができるのは、行政よりも民間かもしれませんね。

堀田 行政から届くのは、指定避難所だけになりがちです。浄土宗青年会からの話では、御船町の山の中の郵便局では、「炊き出しやボランティアが全然来ていない」と。やはり、現地に知り合いがいると情報も直接来て、必要な数だけ届けられるので強い。

渕 曹洞宗青年会も指定外のところに入りましたよね?

高岸 はい。元NPOにいた人が、地震が起こったその日に現地に入りました。その後、19日に私と先輩師匠が炊き出しに。100人分のカレーを作って軽トラックに積んで行きました。
現地に先に入っていたそのNPO出身の人に聞いて、「益城町の馬水南公民館が指定避難所になっていない」と要請があり、そこに行きました。
当初40人くらいが避難していましたが、自衛隊も来ず、物資も届いていませんでした。皆さん、昼間は家の片付け作業をされたりしているので、あまり需要はありませんでした。19日の夜にカレーを炊き出ししました。昨日も、うどんを300食以上ふるまいました。
公民館に寝泊りしているかただけでなく、周辺のかたも「暖かい食べ物をいただきたい」と寄ってこられます。まだライフラインは、LPガスは使えても水道がなく、自分たちでなかなか料理ができない。僧侶であるということは特にアピールしませんでしたが、作務衣なので「お坊さんですか?」と聞かれると、「そうです」と答えました。
区長さんと地域のリーダーさんが指事を出してくれるので、こちらからあれしましょう、これもしましょうか、ということは今のところ控えています。

Okei そうした柔軟な距離感も大事なんですね。それから、避難民でないかたにも暖かい食事を出せる、指定避難所でないところにも行かれるというのは、民間の強みですね。

堀田 先日行った桜木東小学校の炊き出しのとき、受け取りに来た人の中に別の避難所を担当している役所の人がいて、「ウチでもやってくれないか」と。要請されて詫間東区の公民館に行ってみると、1人のおじいちゃんがボランティアの人に「これ、もらえるのか?」と聞くんです。すると、「まず公民館に避難している人に」と言われてしまいました。こちらも、人数分だけでなく、外から来る人も受け入れられるくらいのものは用意しないといけないのかなと。
皆ストレスがたまっていて、行政の人を相手に当たってしまう場面もあります。行列している人たちに、「役所の人たちがウチでもやってくれ!とおっしゃったので、来ました」と、われわれを呼ぶ窓口になってくれた人を紹介するようなこともしました。

慣れたボランティアの心得

大津 地域の高校生なんかがボランティアをやっていても、時間がたつと疲労もたまりテンションも下がってくるんです。そんな中、数日後に外から入ってきたボランティアがいると、彼らも少し休める。スタッフも別の人たちが作ったものを食べて休息でき、(ボランティアスタッフから)「ありがとう」と言われたことも印象的でした。

堀田 最初に作業の段取りを頭の中でシミュレーションして、水場はどこですか、ゴミはどう処理したらいいですか?と、一番初めにまとめて必要な情報を集めておいて、あとは「休んでてください~」と、いちいち聞かないようにするのもコツ。

Okei まる2~3日めになってもバナナ1本に400人が並ぶ、というようなこれほどの飢餓状態というのは、東日本のときにはなかったかと。

高岸 渋滞はひどかったですね。

大津 物資がまわりだしたのは、土日の後ですね。土日の間は、足りてないという話は多く、月曜日の夕方くらいに自衛隊も入ってきたところが多いようです。

高岸 慢性的な渋滞はネックでした。

Okei ガソリンは足りてました? テレビ局の車が給油の列に横入りしたという報道もありましたが。
(一同) ガソリンはありましたよ、けっこう。

菰田 テレビ局の報道が最もよくないです。あれの影響で、偏ったものが届いたり。ネットの情報も無駄が多い。

堀田 ただ一部は有益なんですよね。Lineの「共有の広場」というのがあって、そこで、まったく面識のない人から連絡がきて、「寝たきりの人とか障がい者の分も、誰かが並ばないともらえない。さしあたり20人分持って来てもらえないか」という要請があって役立ちました。そういうつながりかたも、あるんだなと。

渕 そういう使い方ならいいですよね。

菰田 私の行っているところは、現在は夜は300人位になりましたが、多いときは800人くらいでした。しかし今でも600~700人分持って行かないと、鍋持参で「4人分」とか言われるので、足りなくなります。

1995年以降、山は動いた

平川 東日本のときも今回も感じた事。阪神大震災のときに「ボランティア? どうする? 行くのは時間がある人かなぁ」というようなイメージでしたが、東日本のときも今回も、みんな迅速に行ける体勢ができてきたというのは、すごいことだなと。あの当時のイメージからするとだいぶ違う。

堀田 Facebookなどで行った人がつぶやくと、「私にもできそう」というのもあるかと。

Okei 状況報告の域を超えて「行って来ました!」とアピールするのはどうかと思ったりもするけれど、それも波及効果を呼ぶ場合もある。つまり、受け取る側の問題なんですね。

平川 ボランティアは点から始まりますが、インターネットやFacebookで面へとつながっている。いいことも悪いことも含めて。現地へ行けなくても、誰かと誰かの間をつなぐとか、いろんな支援のしかたがあるというのをみんなが感じ取っているのがすばらしい。

Okei 3・11の影響もあるでしょうけれども、平川さんもされているような日ごろからのホスピス活動などもあって、お坊さんは被災地へ来て布教をするわけじゃなく、日ごろから人助けをするのが仕事なんだ、という認識も広まったと思います。

平川 昔は法衣を着て拒絶されたけれども、いまは作務衣やジーンズでパッと現地へ行って、あえてきかれたら「お坊さんですよ」と。だいぶ変わってきたと思います。

高岸 現地の人から焼きそばという要望があって、畳半畳分くらいの鉄板で焼きましたが、時間かかるんですよね…。3時間くらい焼きっぱなしでした。

Okei 法衣ではできないですよね。

高岸 最後尾のかたは1時間半待たせてしまった。待っている人に、温かいコーヒーを出したらすごく喜ばれました。

現地に行かれない人へ支援の場を提供するのも、貢献

大津 (大学3年のとき、中学生の弟を連れて阪神淡路大震災のボランティアに行った話)学校図書館の本の整理を頼まれたんです。黙々と、ただ本を束ねて整理するだけ。反省会で、愚痴が出たんです。
「こんなことをしに来たんじゃない、炊き出しをしてありがとうと言われたくて来た」とか、中には、「就職に有利だから来たのに」など(笑) なんのためのボランティア? ボランティアってなんだろう?ということを考えさせられた体験でした。
しかし、どんな動機であれ、ボランティアは1が集まれば100になるが、0からは始まらない。

Okei 0よりは1のほうが良いとはいえ、「一番乗りしました!」「こんなに支援しました!」とアピールするのは、新宗教だけでいいかなという思いもありました。今回、伝統仏教の皆さんはアピールせずに見えないところで、テラ・ネットや各宗派の青年会が中心となって活動されている事実があり、とてもよいことと感じました。

平川 浄土真宗では、仮設住宅に移ったあとの家財の支援をするために、いま準備していると聞きました。

Okei 中長期の息の長い支援計画も、大きな組織ならではのことですよね。一ヶ寺一ヶ寺が募金箱を置いて宗門に集めたら、相当な額が集まるわけで。

菰田 前線で働くほうが立派だ、ということじゃなく、自坊の地域にいながらでもできることをお寺が考えたほうがいい。
調理を寺族さんに手伝ってもらって感じましたが、寺族さんは、何かはしたいけれど、寺を離れられないし子どももいるし遠くへ行かれるわけじゃない。何をしたらいいのかわからない。当日の朝お願いして、けっこうな数のかたに集まってもらえたんですが、調理を依頼したこと自体が喜ばれた。何かしたい、という人のきっかけをつくることも大きい貢献だと思います。

堀田 若松区(北九州市)で「子どもたちが(揺れを)怖がっているから会議は欠席します」という声 があったときに、恐怖を取り去るために、子どもたちに募金箱を手づくりしてもらってはと考えたん です。募金箱があっという間に 55 くらい集まった。そして 1 日で募金は 43 万円も集まり、これを日本PTA全国協議会 に預けたという話もあります。怖がっていただけの自分たちが動いた、という今回の体験が、将来何かあったときに「すぐ動ける」ということにつながればいいですよね。

渕 現地に行かれない人の気持ちを汲み取る、そういうことも本当に大事ですよね。
石材店の森さんはどうですか?

森 全優石とかいろいろな団体から、行動しようという声もあります。熊本の個店から復旧の手伝い相談もあります。実際、福岡でも地震を経験した経緯があります。とくに福岡の地震と熊本の地震では被害の規模も度合いも違う。福岡は、塀が倒れてケガなどは大勢いらしたと思うが、家屋が倒壊したというまでの被害はなかった。今回は、まず身を守るところからなので、お墓の復旧までまだ相談が至っていない状態です。熊本は、墓を直すとなると、基礎から直さなければならないほどで。

渕 わが家のお墓が倒れる、というのはものすごい心的ショックじゃないですか。直すことも心のケアにつながりますよね。

Okei 石材店のかたも、息の長い支援を考えてゆかれることになりそうですね。
災害という特殊なときだけでなく、ふだんの姿勢が支援につながるということについては、いかがですか。

緊急事態だから、ではなく日常から鋭敏に

平川 浄土宗のかたは常に社会を意識しているという雰囲気があると思います。

大津 テラ・ネットでは、海外支援をしていくなかでご縁を大切に、ということは伝えています。昨年は戦後70年御遺骨収集とか、次なるプロジェクトについても随時考えていたり。

堀田 カンボジアの孤児院支援で知り合った女の子が来日して、成田に来ています。その子の親戚のお兄さんがカンボジアの僧侶なんですが、「貧しい学校をなんとかしたい」という発言が彼のFacebookに上がっていて。葉っぱの屋根だけのところで、青空学校で授業をしている。
海外の窮状を報道などで知っても、縁がなければ押しかけて支援することは難しいけれども、その子を通してご縁ができたお蔭で、その子が通訳し、移動手段も仲介してくれると。「それならできるかも」という流れはありました。

大津 そういうことを継続的にやっているので、支援にも慣れてきたというのはあります。

Okei 曹洞宗もシャンティなどと有機的に宗派がつながっていけば…

大津 じつはテラ・ネットは、シャンティともつながっているんですよ。

堀田 シャンティの炊き出しに間に合うようにと行ったけれど、道路事情(あと10分のところでがけ崩れで迂回)で間に合わず、シャンティの炊き出しが終わる頃、時間差で「やっと届いた!」と。

菰田 私は17、18、19日と、シャンティの人とずっと回っていたんです。西原村(阿蘇郡)のほうはまさに、手が回っていなかったですね。ところがそういう噂が流れると、3日後に西原に入ったときは、水は受け入れ拒否というくらい物資が貯まっていました。

渕 私も現地を見て、支援物資、トイレットペーパーなどが外に積み上げられて雨に濡れている状態は、ちょっとなんとかできなかったのかと感じました。

Okei そうですね。この情報化時代に、どこに何が足りているのか、いないのかという情報を、もうちょっとリアルタイムで受発信できる仕組みがあってもよかったように思います。

平川 数週間以上ともなると、日常のお寺のこともあるじゃないですか。皆さん、バランスはどうしてらっしゃいますか?

大津 2~3人でやりくりしたり、行くつもりが行かれなかったら知人に代役を頼んだり。

堀田 法事が終わって夜出発とか、空き時間でやりくりを。

Okei 土日が忙しくて平日動けるというのは、週末中心でしか来られない民間ボランティアと時間がずれるので、かえって好都合ですよね。

大津 自分は、浄土宗の「寺子屋フェスタ」でも3・11でも皿うどんを何百食分も作っていたので、その経験がなければ、いきなりの炊き出しは難しかったと思います。

平川 私は、震災から1か月半くらいたって東北に行ったとき、物資は足りてきて、そろそろ自立に向かわないとみたいなステップでした。この段階になると、それまでずっとがんばってきたことで、突然心が折れちゃうこともあるからとか。以前の震災の経験から、サポートする側も時系列で意識していくことも今はできるので、支援のありかたも蓄積されて柔軟になってきているなと。

渕 今回で最後じゃないですからね。地震列島なわけですから。

堀田 ニュージーランドから留学して日本で僧侶になったテラ・ネットのメンバーがいました。日本は地震が多いと聞いていた。初来日で大阪に留学したら、2日目に阪神淡路大震災で。「こんなすごい地震がしょっちゅう来るのか!」と。

永石 じつは私は今日、初めて熊本に行ってきました。いったい何ができるのかと、いま自分自身で反芻しているところです。今日いろんなお話をうかがって、町にあるお寺が拠点になって情報をいろいろつなげていけたらいいなと感じています。

平川 あまり重くとらえないで、気楽に「やってみようか」くらいがいい。「何かやらないと!」ではなく。

Okei そうですね、経験が積まれていくと、気構えるこ
となく当然のように手を差し伸べられる。そのためにも、0のままではなく、まずは1を、そして1を積んで100にしていくことなんでしょうね。
渕さん、会場のご提供ありがとうございました。

この記事を書いた人
『いいお坊さん ひどいお坊さん』(ベスト新書電子版, 2011)、『心が軽くなる仏教とのつきあいかた』(啓文社書房, 2017)ほかの著者、勝 桂子(すぐれ・けいこ)、ニックネームOkeiです。 当サイト“ひとなみ”は、Okeiが主宰する任意団体です。葬祭カウンセラーとして、仏教をはじめとする宗教の存在意義を追究し、生きづらさを緩和してゆくための座談会、勉強会を随時開催しています。
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