お坊さんと、常識を覆して生き生きしよう!

ハラスメントについて ~近年の村上春樹作品をもとに~

2013年10月17日(木)@文京区光源寺

村上春樹さんの近年の2作品、『1Q84』、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』について2人の僧侶とお話ししていたら、「この話には、ひとなみでしばしば話題にしている、ハラスメント(抑圧とか自己肯定感)の問題がかなりのウェイトで入っているのでは!」という流れになりました。2011年秋の「モラルハラスメントについて」から2年。村上作品について語らい、きっかけをくださった島田絵加さん(浄土宗の尼僧さん)のお寺にて、2度目のハラスメント座談会となりました。

今回は話題をモラハラに絞らず、「抑圧と自己肯定感」というテーマで「社会生活で不快(抑圧)に感じること」を多岐にわたり語りあいました。

医師の参加があり、発達障がいのことが頻繁に話題にのぼり、個人的な発言も多かったため議事録の公開はしませんが、当日配布した資料と、論点のポイントを抜粋します。

参加者=僧侶8名、葬祭関係2名、一般の女性6名+Okei

親の言葉が(青少年当時は)抑圧でしかなくても、中高年になってから「そういう意味だったか」とわかる

・お寺で育ったので、母からは厳しく言われた記憶がある。たとえば「ラッパズボンを履きたい」 と言ったら「誰も履いてないでしょう」と。みんなが映画を観ているから自分も観たら、「他人(ひと)は他人。ウチはウチ」。ほんと舌の根も乾かないうちにアレコレよく言うよ、と思ってきた(=抑圧だったと思う)。
でも自分が子どもに同じようなこと言う立場になったら、「誰もしていないでしょ」は、「その理由を考えなさいよ」という意味だった、とようやくわかった。

・たとえば、舅が言うことを嫁は悪く受け取ってしまい、「自分が不当な扱いをされてる感」を爆発させる。しかし、その舅と親子として長く暮らしてきた自分からみれば、そんなに深い意味で言っていないように思える。

ハラスメントになってしまうかどうかは、言う側だけでなく受け取る側にも依存しているので、とても微妙な問題。

ハラスメントであるか・ないかはどこで見分けられるのか?

・レストランで、「ビールぬるいよ!」と強く言うのはハラスメントかどうか。
※ある居酒屋で、不慣れなアルバイトと見える女性にたいして、中年男性がきつい口調で言っており、女性店員が傷ついていたように見えた場合。

・(客に対しての店員という)言い返せない立場の人にたいして一方的に要望を言うのはハラスメントになる可能性はある。

・ しかしそれでは「何も言えない社会」になる。高圧的で、引くべきところで引かない、というのがハラスメントだろうか。

・店員に当たっているように見えても、じつは目の前にいる奥さんに当たりたいんじゃないかという場合も。

・自分が頼んでいない、間違ったメニューが出てきたときに、店員さんにどう説明するかということでいえば、アサーティブ・トレーニング(※)というのがあります。昔は、言わないことが美徳とされてきたけれど、いまの時代は「一方的にガマンするのはよくない」と。

【アサーティブ・トレーニングとは】
思い通りの結果にならなかったときに、相手にも都合や考えがあることをふまえ、丁寧にしかしはっきりと自分がしてほしいことを伝えるトレーニング。

たとえば、ハンバーグを頼んだのに、ステーキが出てきたとき。

①黙ってステーキを食べ、予定より勘定が高くなってもしかたがないと諦める。(=ノン・アサーティブ)
②「なんで違うものを持ってくるんだ!」と店員を怒鳴る。(アグレッシブな方法)
③自分はハンバーグを頼んだつもりであることを冷静に伝え、ステーキを別の人が頼んだのでなければ、無駄になってしまうので食べてもよいが、料金はハンバーグの値段にしてほしいことを伝える。(=アサーティブな方法)

アサーションは、仏教でも説明できる

・ご都合通りにならないことを苦、ととらえるのが仏教の基本。自分の都合を通そうとするときに、夫婦喧嘩やハラスメントが起こる。相手の言うことをごもっとも、と思うのがコツ。あるいは、ちょっと方向をそらして、「私が煎餅を食べたがってるんじゃないんだ、私の胃袋が食べたがっていてね…」と冗談にすることで、穏やかに過ごせたり。

自分もハラスメントをしてしまっているのではないか、という悩み

・自分自身、子どもにたいして抑圧しているんじゃないかと思うことがあって、本人たちに聞いてみるが、「そうは思っていない」と言ってくれる。でもそもそも、抑圧的だと思われていたら、抑圧している親にたいして「それは抑圧だ」と言い返せないのでは。

・「自分もしちゃっているかも…」と悩める人は、その時点ですでに、真のハラッサーとは違っている。

・「あなたの○○という発言で傷つきました」と勇気をもって告白したとしても、「私のほうこそ傷つけられているんだ!」と30倍の理屈をつけて返してくるのが真のハラサー。

・ただ最近は、 「私も抑圧しているかも…」と悩んでいる姿をポーズにして、繰り返し抑圧を続けてしまう人も少なくないように感じる。

⇒「誰かを傷つけていないか」、とときどきフィードバックしつつ、「傷つけているんじゃないか」と落ち込みすぎないことがポイント。いろいろな人がいて、いろいろな考えで動いているので、「誰からも一様に良く思われたい」と願うこと自体に無理があると悟ろう。

この記事を書いた人
『いいお坊さん ひどいお坊さん』(ベスト新書電子版, 2011)、『心が軽くなる仏教とのつきあいかた』(啓文社書房, 2017)ほかの著者、勝 桂子(すぐれ・けいこ)、ニックネームOkeiです。 当サイト“ひとなみ”は、Okeiが主宰する任意団体です。葬祭カウンセラーとして、仏教をはじめとする宗教の存在意義を追究し、生きづらさを緩和してゆくための座談会、勉強会を随時開催しています。
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