お坊さんと、常識を覆して生き生きしよう!

モラルハラスメントについて

モラルハラスメント。言葉の暴力ともいわれ、近年少しずつ耳にするようになった言葉です。僧侶、カウンセラー、人の相談に乗ることの多い士業者、そしてモラルハラスメントを受けた当事者が集い、半日にわたり語らいました。

【参加者】
藤尾聡允(臨済宗僧侶)
松本智量(浄土真宗僧侶)
Xさん(曹洞宗僧侶)
増田俊康(真言宗僧侶)
和田一郎(カウンセラー)
Yukihei(葬祭業)
森川つよし(行政書士)
Aさん(当事者)
Bさん(葬祭業)
Okei(ひとなみ主宰)
※具体的事例についてお話しくださったかたについては、
個人名を伏せさせていただきました。

2011年10月17日(月)神奈川県横須賀市 追浜・独園寺にて

モラハラとは?

Okei モラル・ハラスメント、通称モラハラっていうのは、直接に身体に傷を負わせることじゃなく言葉で心に暴力を加えていくことなんですが、職場でも家庭でも頻繁に起こっています。最近ではデート中のモラハラも指摘されています。結婚してる人の立場からすると、「デート中なら別れればいいのに」と思うけれども、そうもいかない複雑な心理構造があるようです。

そしてそれが、うつや自死の要因になっているのではということで、社会問題化しつつあります。「モラル・ハラスメント」という言葉の提唱者は、フランスの精神科医マリー=フランス・イルゴイエンヌさん。その著書から推察すれば、亭主関白の極端なもので病的なまでになっているケース、姑の嫁イビリなど、以前から存在していた家庭問題のなかにも、モラハラと言えるケースがあると思います。職場でのモラハラについては、フランスなどでは(発覚しても異動などの手段をとらなかった場合に)罰金刑も制定されました。

ポイント1=はじめは頼れる夫・頼れる先輩

大きな特徴として、モラハラ構造をはじめから見抜くことが非常に難しいとよく言われます。最初は頼れる先輩であり、御義母さんであり、夫なのです。それが、心を許したころに急に態度が変わってゆきます。頼んでもいないことについて「やってない!」と叱責したり。エアコンを消して文句を言われたので、翌日も消さずにいると、それもまた叱られる。何をしようとその人がやったら文句を言う状態が続く人間関係。しかし、先日まではそうではなかったので、された側は、「何かの間違いだろう」、「今日はたまたま虫の居所が悪いんじゃないか」と思ってしまう。それが日常的になってくると「おかしいな」と思い始めるけれども、「いつかは優しかった最初の頃に戻るはず」と思ううちに何ヶ月・何年と続いてしまう。

そして、やった本人には罪悪感がない、ということがポイントだと思います。

たとえば、「毎日毎日こうされて辛いんです」と勇気をもって相手に言ったとしても、「そんなふうに受け取っているとは知らなかった、ごめんなさい」とはならず、「そんなつもりでやったんじゃない!」と自己弁護が始まるのです。

ポイント2=自己弁護・正当化・責任転嫁の3点セット

Xさん(曹洞宗僧侶) 私は、主に職場でのモラハラの相談を受けています。

最初は死んだほうが楽というほど深刻だったかたが、部署を変えていただいただけで能力を発揮されてパラダイスのような日々に変わった例もあります。こうした例からは、フランスのような社会的対応が重要だという実感もあります。

また、病院でうつの診断を受け、雇用をしてもらいながら生活をつないでいるかたの中には、給与はもらえても、自分の生きがいというものを感じられなくなっているケースがあります。このままさしたる仕事を何もしないで通勤だけ続けていても、なんのために生きているかわからないという感情がこみあげてきて辛いという状況です。

職場の上司からモラハラを受けている人たちのお話をうかがっていて思うことは、いわゆる加害者になっている人たちが、きっと家庭でも何か問題を抱えていて、その軋轢を会社へ来て部下に投げているのではないかということです。学校のいじめと同じで、加害者でありながらも、別の枠組みでは辛い思いをしているのではないかということがある。

また、家庭の中で被害者的立場にはなっていなくても、それまでの養育の過程でなんらかの被害を受けている、ということも言えるんだろうなと思っています。

全体に思うのは、自尊感情をうまく育てられていない人たちが加害者になりうるのかなということです。もしかしたら今からでも、たとえば自尊感情の傷つけられかたによっては、自分も加害者になりうるのかなと。

Bさん 私は、モラハラってなに? ということがよくわからなくなることがあります。人間関係の中での抑圧は日常的によくあることだし、モラハラだと言われてしまえばそれがモラハラになってしまう。しかも範囲があまりにも広すぎる。職場でも学校でも、人が集まればどこにでも起こる。本当は当事者ではない人がモラハラだと大騒ぎしているケースもあるでしょうし、渦中にいてどうしてなのかまったく気づかなくて、その集団から出てみて初めてモラハラだったとわかるケースもありますし。

家庭内ではよく親が子にモラハラをしていることってあると思います。いっぽうで、ある人から聞いた話では、娘さんからの言葉でPTSDになっているケースもあって。彼女の場合、精神科医からもいろいろと言われることで混乱してしまった時期があって、当時医師や娘さんから言われた特定のある言葉を言われると、いまでもつぶれてしまうほどの気持ちになると話していたことがあるんです。ただそれは、娘さんの成長過程であって、親である彼女自身が「これはモラハラじゃない」と思いさえすればそれで済んでしまうのかと悩んでいました。モラハラ、という言葉が存在しているために、逆に悩みが多くなる人もいるという例でしょうか。

職場でいうと、私は年上の女性に辛く当たられることがしばしばあるんですが、周囲が「大丈夫?」と支えてくれたらしのげたという体験はあります。

Okei 線引きがすごく難しいですよね。今日の時点では、私としては、「罪悪感がまったくないところまでいっている」、「それを言ったら傷つくんだよ」と言われても改める気持ちもない場合がモラハラだとしたいんです。さきほどの例では、娘さんが何年かたって成長したときに、「お母さんは、あの頃こう言われて実は辛かったんだよ」と言ったら、きっと「それは知らなかったごめん」と言ってくれると思うんです。そうであればきっとそのときにはモラハラではなくなると思うし、そこでまた自己弁護で理由づけが始まってしまうと、モラハラの傾向が強いかもしれないなと思います。

Yukihei(葬祭関連) そういう意味でのモラハラは葬祭業界にもかなりありそうだなと思いました。モラハラとして明らかなケースはもちろん問題ですが、まだモラハラと呼ばれていないモラハラが結構潜在しているだろうなと。

増田俊康(真言宗僧侶) 私も、○○ハラスメントと言われるものの中でも、モラル・ハラスメントについてはよくわからなくて、言葉の暴力くらいに思っていました。お寺の子どもとして育つと、近所の人から「お寺の息子のくせにセミを殺してた」と言われたり、お師匠さんからも「ココができてない」と厳しく言われたり。そうしたことが、どこまでいくと”暴力”にまでなるのかなと。二人一組になったときに、相手よりちょっと上に立つためには攻撃は最大の防御という感じで叱る・怒るをする人がいますよね。あれもそうなのかなとは感じるけれど。

Aさん ターゲットを決めるのがモラハラで、誰にでもするわけじゃないから、他人に対しては非常に「いい人」ですね。

ポイント3 ターゲットは特定個人。「される側」の逃げ場がない

増田 なるほど。

Okei ウラオモテってあると思います。モラの夫は、妻の悪口を決して外では言わないとか。

増田 あと、視野を広く持つっていうこともできると思います。タンポポの種がここに落ちたとして、「ここで生きていくしかないんだ」って思うのと、「あ~~~地球で生きていこう!」って思うのとではだいぶ違う、というように(笑)

ただそれは、上に立つ人がそれだけおおらかな視野で、確固たる信念みたいなのを持てないとですが。

家庭で立場がふさがってしまったら、親戚やら少しひろげてみたら、あなたに味方してくれる人がふえるかもしれない。

Okei そういった大局観を伝えることで生きづらさを回避させることは、深刻になっている当事者にしてみれば、たとえば医者や教師に言われてもどこか「他人事だから言える」みたいに受け取れてしまうところがあるので、ぜひとも宗教者のかたにどんどん探求・強調していってもらいたいところです。

和田一郎(生きるアシスト.com) 私はモラル・ハラスメントということについて、あまり詳しく知らずに来ました。日本人の場合、誰でも加害者になったり被害者になったりするのかなと思ったり。それを全てモラハラという言葉でくくっていいものかと考えたりしてました。

どういうことかというと、日本人の場合はまだまだ集団に依存するというか、集団に従って、個人が置き去りにされているというところがあるので、日本人自体が小さい頃から抑圧されてるみたいなことなのかなと。そういう大枠を変えていかないとどうにもならないのかなと。

藤尾聡允(臨済宗僧侶) みなさんのご意見を聞きながら私が思ったのは、とくに被害者の特徴についての点です。これらのポイントは、「誰にでも当てはまること」ではないかということです。つまり、誰でも被害者になりうるという感じが致しました。被害者の特徴は私にもすごく当てはまるし、おそらく多くの方にも実感として当てはまるのではないでしょうか。

Bさん 被害者の類型を読んだら、私の知っている人はみんな被害者にあてはまる。

藤尾 一方で、加害者のほうは、明らかに変質的、あるいは異常というか、「一般的ではない」特徴があるように感じました。やはり、ある意味において特殊性が見られると思います

松本智量(浄土真宗僧侶) 私は組織の中での執拗なモラハラを見たことがありますが、いわゆる加害者の行為の源泉にあるのは被害者意識だろうと思いました。

被害者・加害者というのがキーワードになりがちですが、自殺対策に取り組む僧侶の会であるときHPに、「あなたは被害者でも加害者でもない、あなたは当事者なんですよ」ということを私が書いたら、抗議が来たことがあるんです。その主は、児童虐待の被害者の社会復帰を手伝う団体の人でした。

児童虐待を受けた子ども達に対して、その子たちは「自分が悪いから(母親なりから)こういうことをされた」と思い込んでいるから、「あなたは悪くない」と言い続けることから改善の第一歩が始まる。だから、「被害者は被害者だと言ってやらないといけない。そこから全てが始まるんだ!」と。

ポイント4 加害者の源泉に、深い被害者意識がある
(連鎖の問題)

Okei モラハラの被害者も、似たようなところはあります。わかち合いの会に出ている人たちからよく耳にするのは、毎月一度同じ境遇の者どうし集まって、「被害者でいいんだよ」とはっきり言われないと、自分が悪かったんじゃないかという思いがめぐってしまう。

たとえば、自分自身の言葉で相手がひるんだときを思い出して、その表情を思い浮かべると、自分が悪かった、と思い込んでいくんです。だから、被害者だよ、とハッキリ言ってもらうことは、「ときどき必要」だと思います。

松本智量 もちろん、もちろん。ときには必要だと思います。だけど、それが全てではない。

Okei そうですね。被害者、被害者といい続けて「同盟」みたいなものを立ち上げて闘争の構造にもっていくのはどうかなと思っています。

精神科医の本も、「モラハラが社会をダメにする」、「加害者」などと言い切っているんですが、わかち合いの会で皆が「私たちが(相手を加害者に)つくりあげてしまっているのでは」と言うのを聞くと、闘争できる人たちとは、もしかしたら類型が別なのかなと思ったりもします。

たぶん、闘争にもっていけるタイプの人は、抑圧構造を連鎖させるタイプではないかと思っています。夫から受けたら子どもに、家庭で受けたら職場で、というように。それが他人への攻撃ということではなく、「同じ思いをしている人を救いたい」という傷つけない方向で出てくれば、まだ気づいていない人のための突破口となるので有用だと思います。ただ、それが全てではないですね。「逃げなければダメ」、「逃げればOK」ではなく、生み出さない方向を考えていくためには、もっと裾野にある大きな問題をみていかないと。

(どのように深刻な状態になるのか)~生卵のたとえ

藤尾 加害者は、相手を支配することによって自分の存在を成立させているところがあると思います。昔流行った言葉で「自分さがし」というのがありました。それは裏を解せば、会社でも家庭でも、自分の存在を認められたい、認めさせたいということではないかと。仏教では自分を無にするといいますが、まさに、その真逆の方向というか、強烈な自我というか。そういう面で、異常な気が致します。この観点に於いて、一見すると誰でも、被害者と加害者がターンテーブル的に立場の変わる側面がありそうですが、実は決定的に違っていると思います。それは気質の奥深い所に潜む異常性の存在です。

もう一つの特徴は、その気質全体を上手に覆いかぶせられていること。換言すれば、「いい人」の仮面をかぶっているので、いわば羊の皮をかぶった狼的な異常性が秘められているという感じがします。

ポイント5「いい人」の仮面により、
当事者以外には本質が見えづらい

Aさん 支配のしかたにもいろいろあって、たとえば、お風呂ももったいないから入るな、ボロボロの服でもそのまま、というケースもありますが、うちの場合は人形と一緒で、結婚前の服はすべて捨てられたし、趣味のものはほとんど新生活に持ち込ませてもらえなかったです。実用的なものだけでいい、と。服を買ってくれるのは、一緒に出掛けるときに自分が恥ずかしくないため。他人からみれば「デキた夫」。でも、こちらは人格を否定されているので、だんだん自分がなくなっていきます。そして、そのうちに相手の選ぶ服装がだんだんイヤじゃなくなっていくんです。

「独身の頃より趣味がいいわよ」と事情を知らない人から言われると、はじめの頃は愕然となっていたのに、合わせていれば楽なので、”自分”はだんだんと溶けるようになくなっていって、「これがいい」というものまで同じになっていく。好みを合わせないと買ってもらえませんから。

藤尾 管理されてるケース、あるいは支配下・統治下に置かれるケースは多いかもしれません。奥さんや恋人を自分のひとつの所有物、アクセサリー的な感覚でとらえていると思います。そして、自分の好みの色に染めるというか、自分の思い通りに加工するというか、完全なコントロール下に治めようとします。

Okei 良好な夫婦関係だったら、趣味がだんだん相手のものと似ていくことも嬉しかったりするけれども、喜べない関係なわけですね。

Bさん 自分の中に違和感があるか、ないかは重要でしょうね。

Aさん でも、だんだんマヒしていっちゃうから、どれが本来の自分なのかわからなくなるんです。初めのころの違和感をおぼえていることが大事です。

森川つよし(行政書士) 男の人の場合は食事の味付けはだんだん妻に合わせさせられていきますよね。関西風だったのに、だんだん濃い味付けが平気になるとか。

Okei それがハラスメントになるかならないかは、「もうちょっとこういうほうがいいな」と提案したときに、言い訳によって全否定されてしまうか、次第に歩み寄ってもらえるかで変わってくると思います。

Xさんのお話にあったように、薄味が好きだったのに家庭でグラタンとかバタ臭いものばかり押し付けられて、子どもの教育も一切口出しできずに妻の言いなり、というような人が、会社で逆に部下にモラハラをしているという構図はとてもよく想像できるので、その場合は夫のほうがモラハラ状態にあるといえると思います。気づいていないから、自分も連鎖させてしまう。

それから、誤解をされやすいんですが、「釣った魚にエサをやらない」というのは、誰にでもあることだと思うんですよ。それ自体はモラハラではない。だけど、モラハラという言葉が流行ったことで、たとえばデートモラとか呼ばれる話の中には、「婚約したとたんに何も買ってくれなくなった」とか、そういったこともモラハラだと言われていたりする。そこは、きちんと区別してほしいんです。婚約したらその後はお財布が一緒になるんだから、ふるまっていられないですよね。それをモラだと言い張る人が増えている。それは、立場をわきまえていない人による逆モラハラではないかと思ったりするんです。

Aさん それは混ぜこぜにしてほしくない(笑)。

Yukihei 釣った魚にエサをやらないというのは、いろんな意味があるんじゃないの? モラハラと名付けられるべきケースもあるでしょう。

Okei そうですね。含まれるものはあります。ただ、蓄財の目的が「家族のため」なのか、「自分の趣味のため」なのか、そこが大きな違いです。

Aさん 本にも「モラ夫はケチ男」って必ず書いてありますよね。

Okei 自分のものは自分のもの、相手のものも自分のもの、になっちゃうんですね、モラの人が結婚すると。 Aさん 150歳になっても死なないと思い込んでいて、財産をひとりじめしたがる夫の話を聞いたことがあります。墓場に持っていくことはできないとわかっているのに、100近い年齢になっても自分の財産は全て自分のものだと思い込んで、「誰にもやるもんか」と言い張っている。

Bさん 「自己愛性パーソナリティ障がい」だから、自分以外には愛も財も与えないということか。

和田 なるほど。

Okei 相手の好みを無視して管理できるというところからすると、数値や情報で判断することに長けていて、感情をあまり読まないという共通項もあるような気がします。相手が喜んでいるか・いないかという表情は一切無視して、いついつ、自分好みのどんな服を、いくらで買って、着せた、という事実(情報)が大事なのであって、似合うかどうか、喜んでいるかどうかということには重きを置かない。

モラハラをしてしまう人自身は、抑圧を受けて育っているので、暑かろうが寒かろうがガマンはできるんです。ただ、相手がしたことに文句を言いたい。つまり、「自分はどうである」「どう思っている」がない状態なんです。だから、同じ状況、同じ出来事に対して善であるともいえるし、絶対悪だとも言ってしまえる。

Bさん 人格に二面性があるっていうことかしら。

Okei そうですね。アメの時期(理解してるよと言う)と、ムチの時期(同じ人の評価とは思えない劣悪な評価になる)の二面性があると思います。

さらに深刻なのは、「あなたはこういう人なんだから」と言われ続けるので、さきほどAさんがおっしゃっていたように、自分が本来どういう人間であるかわからなくなる(人格の破壊)。

しかもそれが、「ミラー状態」(自己投影同一視)と言われる状態であって、じつは、Aさんについて言い当てたように言われていても、実際は、モラハラをしている本人自身のことであったりする。そのミラー現象ゆえに、「100%あなたにお返ししたいです」というようなことをよく言われるんです。はじめのうちは、「どうしてこの私が?」、「まさか」と受け流していても、身近な家族から言われ続けることで、「あんなに繰り返し言うんだから、きっと私がそうであるに違いない」と思い込んでしまったり、(友達すべてが違うと言ってくれても)「世界中で一番身近なこの人がそう言うんだから、きっと同じように思う人がほかにもいるに違いない」と、相手の正当化に引きずり込まれるように、自分までもが相手を正当化し始めてしまったり。これは、モラハラの専門書などを読むことで早期にその構造に気づけば、精神的な破壊に至る前に予防できる可能性があります。

通常の人間関係が2つのゆで卵ならば、
密室状態でモラハラ関係に陥った2人は
「1つの器に入れてグチャッと混ぜられた2つの生卵」

Okei モラハラの相談者に対して、もっとも痛手となるのは、「その場を離れればいいじゃない」と言われることなんです。生卵2個がぐっちゃとなっているので、そう簡単に分離できないわけです。「いつか戻れるんじゃないか」、アメの時代を思い出して離れられない。そういう状態です。

Xさん 生卵をグチャグチャにした状態っていうのも、状況によりますよね。ウチに相談に来る職場でのモラハラの人たちは、そういう感じではない。

Okei そうですね。職場での場合と家庭での場合は、ずいぶん違うかもしれません。職場の場合は、24時間の密室関係で人間関係が生卵のようになることよりも、むしろ「ここから出たいけれど、出てしまったら食べていくのに困る」という、”生活そのものへの危機感”に支配される弊害のほうが大きいのではないかと思います。家庭のモラハラの場合は、「食べていくのは楽だからこのままでいるほうがいい」と、逆に自分で自分をその場に縛りつける状況になります。だから、どろどろに溶け合った生卵のように同化していってしまうんですね。どちらにしても、「出たくても出られない状況がある」というところが問題なんだと思います。

ポイント6 「出たくても出られない」が
家庭と職場で共通の問題

和田 私のサイト、生きるアシスト.comでは、モラハラをどこに載せているかというと、いまは「家庭」「家族」というところに載せています。一番生卵になりやすい状態が家庭かなというのが理由です。親子にしても夫婦間にしても、密室性が高く生卵状態になりやすいのではないかと。いまはともかく、そういうことが「あるんだ」ということを多くの人に知ってもらいたいので、あえて「家族」の項目に載せて、それに気がつかずに毎日を送って苦しんでたり、加害者になったり被害者になったりしてる家族のかたがたの契機にしてもらいたいと。

Okei 娘さんが夫からのモラハラ被害に遭ったというあるお母さんが、「職場の人なんかゼンゼン違うわよ。家に帰れば自由な時間があって、逃げ場がないわけじゃないんだから」と言っていたことがあります。

Xさん あぁ、でもそれを職場のモラハラに遭遇してる人が聞いたらきっと怒るでしょうね。

Okei そうなんです。だから、むしろ職場のモラハラ被害と家庭のモラハラ被害の共通項や違いを語るよりも、どっちも鬱を招きやすいということや、両者と「自死念慮」との共通項を考えていったほうが、改善策について探りやすいんじゃないかと私は思うくらいです。

というわけで、あまり絞り込まずに「生きづらさ」のキーワードのひとつとしてモラハラを置いてみた、という方向でいきましょう。

Yukihei ある状態をモラハラと名付けるようになってまだ日が浅いと思うのですが、そう名付けられた状態を、意味を変えずに別の言葉で表現するとどうなるのだろうかと考えていました。あるいは一まとめにモラハラってくくるのではない見方もしてみたい。一つひとつのケースの個別性が高いようですから。

Aさん 話はそれるかもしれませんが、じつは私は、よくある被害者の類型に当たってないんです。「ごめんなさい」と言い続けるのがよくある被害者のパターンですけれども、私は相手に言い返してたほうなんです。だから、自分は加害者の特徴にも当たっていて、そのことでずいぶんと苦しみました。モラハラのことを知って、本を見てみると、「私自身が加害者になっているんじゃないか」とショックを受けるんです。

藤尾 あまりに理不尽なことを言われつづけたあとで反撃をするとか、いままで抑えていたバネが跳ね返って強い言葉で言い返してしまうっていうのは、モラハラの加害者になっているのとは違うと思いますよ。なぜなら、先に述べたように、性格の奥に潜む独裁的統治者気質のようなものが内在されていませんから。ごく自然な人としての反射・反撃行動だと思います。一方、加害者の場合には、まったく意識することなく、気質からそういう行為をしていますから、そこには反省などの感情は存在していません。

Okei バネが跳ね返るように強く言ってしまう、というのは私にもよくわかります。ただ、いま冷静になって考えてみると、「もしかしたら私がそうだったんじゃないか!」と思っている時点で、反省しているから、いま定義しているような「責任転嫁・自己弁護・正当化の3点セット」で反省をしない、というモラハラの加害者には当たっていないように思います。ただ、渦中にいるとわからなくなる、ということはよく理解できます。

Bさん 自分が加害者じゃないかと意識した時点で、ひとつの線が引かれるというのが、Okeiさんの線引きですね。

ポイント7 自分も傷つけている?と
自省できる人は、加害者ではない

Okei そうです。フィードバックして、「自分は加害をしてしまったんじゃないか」と言える人は、そうしないように気をつけて、加害を減らしていける可能性があるわけですから。

問題なのは、苦しかった、辛かったと相手が何を言っても、「それは自分のせいじゃない」と言い訳を重ねていく状態です。被害はひろまる一方で、関係を絶つ(離れる)以外に被害を止める方法がないので。

Aさん そう言ってもらえると、少し落ち着くんです。たしかに、モラルハラスメントをしてしまう人というのは、「オレ、それっぽいなぁ」なんて思わない。自分中心にまわっているので。それが自分自身だから。

Okei 本や雑誌で大雑把に表になっていると、どういう状況で、と但し書きがないまま「大声をあげる」など漠然と書かれているので、正常な人であればあるほど、「それなら私もしているんじゃないか」と悩むわけです。

そうなってしまうと、「モラハラなんて医者が呼ぶから病的に扱われているだけで、本当は誰でもそんなことくらいある」となってしまい、問題解決が遠くなってしまうと思うんです。

だから、精神科医の視点で「自己愛性パーソナリティ障がい」といえるのはどこなのか、を一般の人が見分けていくことが大事と思います。

藤尾 その点がまさに異常性ですね。加害者は反省などしませんし、自分が完璧というかパーフェクト人間であり、いわば自分中心に世界が存在しているような思考パターンで判断しているわけですから。

Aさん 反省をしないんじゃなくて、「反省するって何を?」なんだと思います。悪いと思ってない。反省ができないんだったらただの駄々っ子ですが、悪いと思っていないので。

Bさん そして、自分が認識していないだけじゃなくて、人から指摘されたときにも認識できない、のが線引き。

Okei そうです。(加害者は)周囲から良く見られようとするので、いい先輩やいい夫、いい父親を演じようとするし、それだけに精神科の先生がすごくやりづらいと(『家庭モラル・ハラスメント』には)書いてあるんです。つまり、どんなにまわりから奨められてもまず自分から病気だと思っていないので病院に行かないし、行く場合であってももっとタチが悪くて、「あなたは悪くありません」と言ってもらうために行く。

Aさん モラル・ハラスメントの夫の特徴として、はっきりと浮気はお前のせいだ、と妻のせいにするんです。

増田 それはものすごい開き直りですね。

Aさん 愛人とはちゃんとしたレストランで食事するけど、ウチでは菓子パン1個、でも「私のことも気を遣ってくれているんだ、菓子パンがありがたい」と。そこまでになっちゃうんですね。

増田 誰のおかげで食べられていると思っているんだ、と言う男性はけっこういると思いますが、そこまでは……。

加害者はかつての被害者。されど、それを理由に許容できるのか?

抑圧を受けて、「自分さえガマンすれば」と思い込む人が被モラハラになりやすく

抑圧から「責任転嫁・自己弁護・正当化」の3点セットに至る人は加害連鎖を起こしやすい

藤尾 そこまでいくと、一種のマインドコントロールですね。そういう意味で、加害者の本源的気質には異常性が内在しているのですね。一方で被害者は、あちこちへ相談に行ったりするでしょう? でも本当は、加害者が相談に行かなければならない、治療しなければいけないんです。ただ、加害者はもし医者にかかったとしても、外面(そとづら)が良いから短時間で診断するお医者さんでは見抜けない場合が多いと思います。

夫が何かの症候群であると解って、新たなつきあいかたを見出すことで関係が改善するケースもあるでしょう。しかし現実は、私の知る限り、逆になんらかの症候群がわかったと同時に、「そうか、私が悪かったんじゃないんだ」とわかって、呪縛から解き放たれて離婚に踏み切れるケース、すなわち何年も悩んでいた現実から次のステップに踏み出せるということが多く見られました。

被害者はマインドコントロールされている状態にあるから、たとえばご近所の方などから「彼はいい夫ね」などと言われてしまうと、自分の方に責任を感じてしまい「私が悪いんだ」、「自分を変えてもっと相手に合わせなくちゃ」、と思ってしまいます。けれども、本当はそうではないですね。

Okei Xさんがはじめの頃におっしゃった通り、加害する人もかつては被害者だったという事実はあるでしょう。しかし、同様の抑圧を受けてきても、加害に至らない人もいます。また、加害する側には悪意がないので、責めてもなにも改善されません。だからといって、加害する側を弁護することからも、何も生まれない気がしています。

できることは、被モラハラ下にある人に、「それがあるべき状態ではないよ」ということを伝え、「そこにいなくてもいいんだよ」ということをなんらかの方法で伝え、ドロドロの生卵から抜け出ることは苦しいし、とりあえず抜け出たあとも、形ある”もともとの自己”に戻ることはできないので苦悩は続くでしょうが、その状態そのものを時間をかけてケアしていくこと。それが、せめてもの”できること”なのではないかと。

(対処法)-PTSDになっているので、なにごとも否定しないでほしい

Okei 被モラハラ下にあった人は、最悪の状況を脱け出したあとになっても、PTSDのようなことが続くことも辛いことの一つです。状況を理解して、ミラー現象だったから自分は異常性格ではない、とわかっても、たとえば「常識がない」などと言われ続けたことのPTSDで、ただ町で見知らぬ人から「え~、そうかなぁ?」と言われただけで心臓がバクバクなったり。そのパニック状態を脱却するには、時間がかかります。

職場のモラハラの例で言えば、新人で就職してから数年間、同じ部署の上司からモラハラに遭ってきた人が、3年後に部署を変えてもらうと、日々は楽にはなります。でも、一緒に入った同期は3年間で成長している。自分だけは、理不尽な要求をされるだけの3年間だから技術的には何も学んでいない。「ここにいてもしょうがないと思う」と言って、せっかくモラハラから解放されたのに職場を去ってしまうケースもあります。

ただ、本人も身におぼえのない病状というと円形脱毛が好例だと思うんですが、あれも原因がわからない、どうしよう、と思っていると何年も続いてしまうけれども、「治らない円形脱毛はない!」と明言されることであっさりと治ることがあるように、PTSDも、同じ経験をした人から「必ず治るものだよ」と聞かされれば改善は早いと思います。ですから、体験者が語るような場や、わかち合いの場がもっと増えてくれるといいのかなと。

<ひとなみ>としては、気づきの場を与える意味でのいわゆる闘争タイプの「加害者同盟」のようなしかたではなく、生きづらさ全般とつなげて、大竹さんがおっしゃるように「もっと広い裾野の問題」をみていきたいと思うんです。

原因分析~生み出さないために何ができるのか?

Okei 加害者が幼少期に過度の抑圧を受けて、3点セットになっている(責任転嫁、自己正当化、自己弁護)というのは、専門書によく書かれているんです。さきほども出た通り、「自己愛性パーソナリティ障がい」とも呼ばれています。線引きは、「指摘されても気がつかない」ところまでいくと加害者なのかなと思っています(専門家などから指摘されて改善できる人はモラハラではない。指摘されても釈明を続けるのがモラハラ。だから、精神科医がもっとも相手にしづらいと言われる)。

ただ、被害者も、同じくらい抑圧に遭っているんじゃないかと私は考えています。同じ抑圧を受けた人で、正当化・責任転嫁をして他人のせいにしながらしか生きてこられなかった人は加害者になりやすく、「私さえガマンすればその場はおさまる」というような生き方をしてきた人は、被害者になりやすいのではないか。

たとえば、幼少期の話をしたときに「親が変わっている」、「親が厳しかった」など意気投合しやすいので、同志、カップルになりやすい。

要するに、この構造をここまで理解できていても、ちょっとねじれたところのある人でないと惹かれない。それは、抑圧されていた共通項があるからじゃないか、っていう。それを「私さえガマンすれば」になる人と、自己防衛で責任転嫁していく人とで被害・加害が分かれるんじゃないかと。

だんなさんはどんなお育ちでした?

Aさん 親は忙しく、あまりかまっていなかったようで、祖母と一緒にいたみたいです。一人っ子だったし好き放題だったんじゃないですか。おばあちゃんが泣いてやり過ごしていたみたいな。本人は話さないので、義理の母から聞いた話ですが。

Okei 幼少期に抑圧を受けていないケースもあるんですね。

Aさん でも愛情はなかったと思う。義理の父は船の仕事で家にいないことが多く、義理の母は4人姉妹の末っ子でなんでも他人に頼るタイプ。自分の夫を育てるときに、もうどうしたらいいかわからなくなると母(祖母)を呼んじゃうみたいな。そういう育て方をしたみたいだから。

Okei じゃあやっぱり、さっきXさん(曹洞宗僧侶)さんの言った「自尊感情がうまく育っていない人が増えていて、それが要因となっている」っていうのが合っている気がしますね。

和田 じつは私も、相当抑圧されて育ってきたんですね(笑)

Okei そうなんですか!?

和田 両親から捨てられて父の妹に預けられたもんで、妹は迷惑だから私のことはさんざん邪魔扱いしてきました。私はいまだに、自分に価値がなかなか見出せないというところがあります。

Okei 同じように抑圧や愛情不足な状態でも、ハラスメントにならない人だっているわけですね。その違いはどこにあるんだろう、と。

Xさん たとえばスポーツをしていればすごく厳しくされることがあるでしょうし、僧侶だって修行中は無茶なことをしなければならなかったり、いろいろな場面で抑圧はありますよね。 私だってそうやって傷を受けてきているので、それをどこか修復しきれていない、自尊感情が満たされていない状態がどこかにあるかもしれないと考えると、加害者になりうる可能性があるということになりますよね。

Bさん うーん、みんななる可能性があるっていうことですね。

Xさん そもそも、直訳すると「精神的嫌がらせ」=モラル・ハラスメントと本にはあるんですが、この「モラル」というのは道徳とは関係ないんですか?

Aさん 以前、弁護士さんの法律講座に出たときの資料ですけど、「言葉や態度によって巧妙に人の心を傷つける精神的暴力」とあって、例として「理不尽なことを堂々と言う」とあります。

Xさん それが「モラルが欠如している」ということだと。

Aさん 自分は常識人である、と強く思っているということはあると思います。その中には、本当の常識も入っている。

Okei でも、オリジナルの常識もたくさん入っている。

Aさん うん。

Okei たぶん、自尊感情の問題とつながっているんだと思います。自尊感情を保ち続けるために、世間から評価されなければいけないし、自分の経験から来る禁忌のルールをつくってそれに従わなければいけない。 逆に、人間的に相手を守るとか、相手の気持ちに添って考えるということは、少ないんです。

Xさん そういう話からすると、その「モラル」という言葉は道徳的なということではなくて、一般的な道徳的なことから逸脱した自己愛的、自己中心的な道徳観の持ち主、ということなんですね。

Okei そうですね。

Xさん 「モラル」・ハラスメントと名付けられた意味を考えていたら、要するに人間関係をどういうふうに保つべきなのかという「規範」がない、だからモラハラが起きるひとつの要因になっているのかなと思い至ったんです。

たとえば仏教で説かれている根本原理みたいな、あるいは「人に対してやさしい眼を向ける」みたいな、昔の家訓みたいな、仏教で説かれている最低限の人間関係の基本とすべきものが身近に吸収できる場があれば防げるのかなと。加えて、加害者になる人はそういうものに敏感であるなら、それを幼少から意識していけば、防ぐことにはつながるんじゃないかと。

Okei そうですね。家訓や教訓が説かれていた頃であれば、情報がすべての彼らは一般の人以上に、「こういうことはいけないことだ」と幼少からインプットしていきますから、「他人にはやさしくしなければならない」がすりこまれていくというのは考えられますね。

Bさん それに加えて、なぜ「情報がすべて」になっていってしまったのかを根本から考えると、人の肌のあたたかさの欠如というのもあるでしょうね。「自己愛性」とか、自尊感情がうまく育っていないのではということを合わせ考えると。

Okei 生み出さないための解決のポイントは、社会的規範の欠如を補うことと、自尊感情をうまく充足させる養育にあるようですね。

昔の子どもは、ゾッとするような昔話のオチで倫理観を築いていたところがあると思うんですが、いま、物語のオチが改ざんされていることが多いんです。たとえば、「赤ずきんちゃん」では、オオカミは腹を切り裂かれて石ころ詰め込まれて川に沈められなければならなかった。それが、「かわいそうで読めない」というお母さんが多いために、ディズニーの絵本などでは「仲直りをして握手をしました」で終わっていたりするんです。悪いことをしたらゾクッとするような目に遭う、という体験をしていない子どもが多いんじゃないでしょうか。

それと比較すると、柳田国男が収集した日本の昔話とか、鎌倉大仏の横の売店で売っている子ども向けの仏教絵本なんかには、いまでも昔ながらの、ゾクッとくる話がたくさん載っているんです。子どもたちが暇つぶしに本を手にする病院などでは、ディズニーの絵本ではなく、ああいうものを置いてほしいです。

お寺がそれを営業して回るわけにはいかないでしょうから、「生きるアシスト.com」でぜひやってください!

この記事を書いた人
『いいお坊さん ひどいお坊さん』(ベスト新書電子版, 2011)、『心が軽くなる仏教とのつきあいかた』(啓文社書房, 2017)ほかの著者、勝 桂子(すぐれ・けいこ)、ニックネームOkeiです。 当サイト“ひとなみ”は、Okeiが主宰する任意団体です。葬祭カウンセラーとして、仏教をはじめとする宗教の存在意義を追究し、生きづらさを緩和してゆくための座談会、勉強会を随時開催しています。
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