世界三大宗教だと学校では習うのに、私たち日本人はイスラーム教について、教義も祈りかたもいまひとつよく知らない。
テロとか原理主義のイメージばかりがあるけれど、なんと近年、世界でもっとも信者数が増えている宗教らしい。
そんなイスラーム教について、日本人ムスリムのナセル永野さんを招いて学びました。
【出席者(発言順)】
Tさん(三田の家スタッフ)、ナセル永野(世界宗教者平和会議、イスラム教徒)、渡邉忠道(神職、朝霞出雲大社(2021年に出雲大社埼玉分院へ昇格))、木村壮宏(神職、五社神社)、棟方あさの(Okeiの中学高校同級生)、Nさん(ひとなみ非常勤スタッフ)、松本智量(浄土真宗僧侶、延立寺)、東 好章(浄土宗僧侶、佐野市・一向寺)、牧野浩士(Okeiの大学同級生)、Iさん(エンバーマー)、大石真理子(鯰組広報担当:当時)、春日部陽子(なんてんCafeスタッフ:当時)
~途中参加~
前田宥全(曹洞宗僧侶、正山寺)、山﨑雄一(行政書士)、橋本正法(NPO地域交流センター代表理事)、武藤嘉宏(行政書士)、古市理奈(日蓮宗僧侶、NPOびじっと理事)ほか計18名
2012年6月14日(木) 東京 要町「なんてんCafe」にて
Okei(ひとなみ主宰) 今日は出席者の半数以上がお坊さんと神主さんですが、最初にお一人ずつ、今日なぜいらしたのかということを、自己紹介を含めてお願いします。
じつは今日のテーマは、昨年12月に「三田の家」というところで、留学生のかたがたと「宗教について語る」という催しに参加させていただいたとき、イスラム圏からの留学生が大勢いらして、問題意識を持ったところから始まっています。まず、その三田の家の催しの企画スタッフでもいらしたTさんからお願いします。
Tさん(三田の家スタッフ) 私は2009年から三田の家をお手伝いしています。三田の家は、慶應の三田キャンパスの近くで、地域と大学の交流を深めるための拠点づくりとして2006年から始まりました。私が担当している月曜日は、日本人の心理学や日本文化を英語で講義されている先生が主催で、比較的留学生が多く集まります。
私自身、多文化交流に関心があって、手伝っております。もともと電機メーカーでシステムエンジニアでした。「学び」、学校という場以外でできる学びに興味があってSEを離れました。最近は、また情報システム系のことを絡めてネットワークを作ったりしています。多世代、留学生を含めた交流などから起業のバックアップをしたり。
サラリーマンだったときも、将来的にそういう環境に携わりたいので、留学生に接点を持ったりしていました。必然的に、さまざまな宗教を信じる人たちと会い、イスラム教を信じる人とも会っています。日本では、イスラムについての無知を感じます。いつの間にかクリスマスやバレンタインを取り入れて祝ったりしていますが、世界三大宗教と言われているのにイスラム教についてはほとんど知らないなど、バランスが悪いところもあると思います。
同じイスラム教徒といっても、地域や背景によっていろいろです。イランの学生などはけっこうゆるくて、「日本にいるから豚肉を食べることは諦めている」という意見があったり。バングラデシュの学生は逆に厳格だったり。日本人の宗教心や信仰心と同じで、じつはひとくくりにできないなということは感じています。
宗教・信仰心というところを前提に考えるよりは、風土的なもの、自然環境などから影響されて、信じる者や何を是とするかは違ってくるような気がしています。前提を置きすぎずに、いろんな人と関わっていければと思います。
Okei 今日イスラム教徒代表でお招きしたナセル永野さんとも、似たような話をしたことがありますよね。同じ経典から派生したはずなのに、なぜイスラム教ではアルコールを禁忌とし、キリスト教はワインを飲むのか。寒い地域でひろまったから、温まるためにはワインが必要だったのだろう、というような。
ナセル永野(世界宗教者平和会議、イスラム教徒) そうですね。
Okei では、神職のお二人、お願いします。
渡邉忠道(神職) 朝霞出雲大社の渡邉と申します。昨年12月に三田の家で、イスラム教のかたがたとの座談会に参加した流れで参りました。
木村壮宏(神職) わたくしは、クレヨンしんちゃんで有名な春日部から、渡邉さんにうかがって来ました。じつは、イスラム教がテーマということも存じあげずに参りました。
渡邉 木村君には、「お坊さんに会えるよ」という切り口で誘ってしまったので……。
Okei そうなんですね(笑) 今日は、浄土宗、浄土真宗のかたがいらしていまして、あとで曹洞宗や日蓮宗のかたも見えます。
棟方あさの Okeiさんと中高の同級生です。私はお遍路をしますが、般若心経を読めるだけで特定の宗派に信仰があるということはありません。イスラム教と聞いてイメージするのは、ひげを生やしている人たちがいる。アラーの神様に時間を決めてお辞儀をする人たち。戒律が厳しい。というような印象です。イスラム教徒の知り合いはいません。
Okei お坊さんの本を書いたりはしていますが、最近は神社詣りをしてみたり、いろいろです。仏教思想は好きなんですが、とくに何宗の信徒ということはありません。
最近、こちらのナセル永野さんと知り合いました。これまでこうして座談会をしてきて、宗派の垣根はいらないんじゃないかということは感じてきましたが、世界宗教者平和会議というところに所属されているナセルさんとお話ししていたら、宗派どころか宗教の垣根がいらないんではないかということで、今回のテーマにたどり着きました。
Nさん(ひとなみスタッフ) ひとなみのイベントがあるとき、ときどきお手伝いしています。信仰はまったくないです。イスラム教について知っていることは、新書で1冊読んだ記憶はあるんですが内容はおぼえてなくて、女の人を非常に大事にするらしい、ということが書かれていました。著者は女性でした。
あとは、パキスタン出身のタレントさんがテレビで話していたのを聞いておぼえているのは、豚肉がダメということ。人前で道を歩いているときとか、結婚している男女だとしても手をつないで歩くと咎められるような話です。宗教文化が日本とはずいぶん違うと思いました。
松本智量(浄土真宗僧侶) 昨年12月に「三田の家」で皆さんお集まりになって留学生を囲んで宗教の話になったときに、「日本の仏教について他の宗教の人たちに説明するのはすごく難しかった」ということを聞いて、その場にいなかったので今日は宗教間対話について考えてみようと参りました。
イスラムに関して、私が関わっているアーユスというNGO(仏教国際協力ネットワーク、https://www.ayus.org/)が発足以来パレスチナ支援をしていまして、一昨年は私も行き、親しみをもっています。
東 好章(浄土宗僧侶) 浄土宗の東(あずま)です。栃木県佐野市の一向寺から参りました。住職になって2年目ですが、それまではサラリーマンでした。宗教的なことにあまり関心を持たずに生活してきましたが、住職という立場になって、改めて仏教・浄土宗の勉強をし始めたところでございます。
そこで感じることは、宗門の中に入ってしまうと、どうしても壁ができてしまうということです。
震災は私にとっても人生の中で大きな出来事でしたが、そうしたことをきっかけに、信仰を持った人々がともに助け合っていかなければということを痛感しております。
イスラムのかた、キリスト教のかた、新興宗教のかたのお話もうかがいながら、ネットワークづくりをしていければと思います。
以前はバックパッカーでしたので、イスラム教国にも参りました。外から見ているイスラムと、中に入ってのイスラムは違うんだろうなという印象はあります。メディアはどうしても敵対意識をもって報道していますので、打ち解けて相互理解していきたいと思っています。
Iさん フリーのエンバーマー(遺体の保存、修復。ホルマリンと血液を入れ替えて保存する仕事)です。東京観光専門学校で講師をしていたときに、東京ジャーミイ・トルコ文化センター(https://www.tokyocamii.org/)にお邪魔させていただき、イスラム教のことを知ったり、エンバーミングという特殊な仕事のなかで、戒律があるので男性は男性どうし、女性は女性どうしで行うということを聞いたことがありました。
牧野浩士 ビール会社に勤めて、医薬品の部署に長くいました。2010年からは人材開発という研修の仕事に携わっています。
ムスリムの知り合いといえば……大学生の頃、イギリスの語学学校に2ヵ月ほどいたことがあり、いろいろな国、カタール、サウジ、イラク、アルジェリア、クウェートなどからムスリムのかたが見えていました。Tさんさんの話にあったように、ムスリムどうしといっても、地域によって多様でした。
サウジアラビア人が私のカバンにつけていたお守りを見て、「これはなんだ?」「神さまの一種だ」と答えたら、「神さまはアラー1種類だけだ!」と怒り出し、そばで見ていたカタール人が「まぁまぁ……」とおさめたり、ということがありました。何人かは、せっかくイギリスに来たんだから髭をとっちゃえ、とか。
大石真理子(吉川の鯰スタッフ/当時) このカフェの2Fにある建築事務所、鯰組の広報スタッフです。
近くタイルについての催しをこのカフェで行うので、最近イスラム教に興味を持っています。タイルを通じて思ったことは、とても芸術的だなということです。体験を通じた話で言うと、インドに行ったときにイスラム教の家のかたにお会いして、そこに嫁入りした日本人女性と話をしたんです。彼女が言うには、家族のつながりがとても強くて、日本では昔はあったんだろうけれども、もうなくしてしまった家族の感覚があり、「この家族に入りたくて、嫁入りした」と。それが私の、イスラム教のいい印象です。
春日部陽子(なんてんCafeスタッフ/当時) ここ、なんてんCafeのスタッフです。イスラム教については、豚肉など食べられないモノがあるという印象です。タイルの色使いが日本とは全然違うんだなという建築的な要素での印象も大きいです。
Okei ありがとうございました。私が、日本人ムスリムとしてゲストにお呼びしたナセル永野さんとここ半年ほどお話ししてきて感じていることは、「お互いさま精神」のようなことが、イスラム教と仏教は共通しているんじゃないか、ということです。それがあまりにも知られていないので、今回の座談会を企画しました。
では、皆さんのご挨拶がひと回りしましたので、ナセルさん、よろしくお願いいたします。
ナセル あまりにもたくさんの問題意識が出てきて、いま頭がまとまらない状態です(笑)
落ち着くために、まず短いコーランを詠唱させていただきます。皆さんは聞いてくださるだけでも構いません。手の形を真似たいかたは、上から降ってくるものを手で受けとめるイメージでお願いします。
ナセル まず、コーランとお経とはなんぞや?というところからお話しします。
世界三大宗教比較では、コーランとお経を並べることがありますが、たぶんそれが間違いで、コーランに当たるものは仏教にはないんですね。コーランは神の言葉であり、仏教でいうお釈迦さまの言葉にあたるものは、「ハディース」(預言者ムハンマドの言行録)というものです。広辞苑3冊分くらいあります。生まれたときの産湯はこうしなさいから、朝起きてこうしてああして、極端なところではセックスのしかたまで書いてあるんです。
Iさん 管理されているということですか?
ナセル 管理というより、ロールモデル、マニュアル本です。それができなかったらこうしなさい、それもできなかったらこうしなさい、というのがいくつも例示されているんです。
たとえばラマダン(断食月)のとき、日中は断食しなさい。けどできなかったら別の日にしなさい、もしくは食事を他の貧しい人に施しなさいとコーランにあります。ハディースには、それをどのくらい施すのか、ということまで具体的に書いてあります。いくらでも逃げ道があって、順繰りにめぐっていくので、決してマイナスにはならないようにできているんです。じつは、まったく厳しくはないんです。
イスラム教は厳しい、というイメージは、昔は僕にもありました。しかし、学べば学ぶほど、逃げ道があるので楽になるんです。偶像崇拝だけはいけないんですが、それ以外は何をしてもOK。
渡邉 そもそも、どうしてイスラム教徒なのですか?
ナセル もともと、国際政治の研究をしようとして、9・11のあとに、アメリカの情報っていくらでも入ってくるけれど、イスラム世界の情報がほとんどない。だからイスラム世界の研究をしてみよう、と。解説書は読みましたが、人によってまちまちだったので、コーランを読むようになり、そのうちに「日本で勉強してもだめだ、インドネシアに行って勉強しよう!」という流れに。
海外にいると、宗教を知らない(信仰がない)って怖いな、と痛感しました。23~4歳の頃です。身近にあったのがイスラムだったので、入信したんです。
渡邉 それが現在のお仕事につながっているんですか? 私たちでいえば神主とか。
ナセル イスラム教には聖職者がいないので、職業として宗教者であるわけではないんですが、取り組んでいることとしては、日本に住むムスリムのトラブル処理が多いです。いきなりダークな話ですが……、日本の法的機関は、イスラム法のことがわからないので、イスラム教徒の絡む事件の究極的な解決には着手したがらないんです。
Okei イスラム教徒の男性と結婚している日本人女性のDV問題とか、そういうことですよね?
ナセル はい。
Iさん 私はエンバーミングの仕事をしていますが、イスラム教のかたが来たとき、非常におそろしかったです。男性が亡くなった場合は、女だっていう理由で「触れるな、出てけ!」となるじゃないですか。でも、そのときエンバーマーは私一人しかいなくてどうしようもなく。やっぱりそういうところって厳しいんですか?
ナセル 16億人いるので、ひとくくりにすることは非常に難しいです。人それぞれ、その場その場で違うというか。日本にいるムスリムはこうしたほうがいい、ヨーロッパでは……というように、地域によってこうすべき、ということが違っていると思います。
日本に入ってきたのは明治にオスマントルコの難破船が来たときですが、本格的に入ってきたのはバブルのときに労働者として入ってきたパキスタン人、バングラデシュ人がいまの日本ムスリム社会の基礎だったりするので、歴史は浅いです。しかもその間に9・11があって、コミュニティにもヒビが入っている。混乱しているときこそモスクに集合したいけれど、そこには警察も介入してきているので、自分を守るためにモスクに行けない人もいるんです。あいつはイスラムを捨てたのか? となってしまったり。でも実際は、警察がいるから行かない、という人もいるし。
それだけに、日本でムスリムがどう行動すべきかというのは、まだ確立されていなくて、手探り状態です。
本来なら、モスクに集まる人がコミュニティをどうするか考えていかなきゃならないんですが、集まりづらい状況が出てきています。
だからこそ、宗教間対話で「イスラムは危なくないよ」ということを出していくことが、われわれのためにも、日本社会全体の国際理解度を高める意味でも、急務だと思っています。
渡邉 モスクは日本に何か所くらいあるんですか?
ナセル 東京ジャーミー(代々木)と、神戸に1個。あとはマンションの一室など、です。外国人であるだけで入居しづらいのに、さらに目的は「礼拝」というと、物件を借りるのは難しいです。
Okei Tさんは、留学生のかたがたから、生活しづらくなっているというようなことを聞きますか?
Tさん あまりないです。
ナセル 留学生だと(商売等しているわけではないので)実害があまりないのと、日本人にはあまり言わない雰囲気もあります。
松本 さっきのコーランはなんと言ってたんですか?
ナセル 「慈悲あまねくアラーの名のもとに、我々を正しい道に導きたまへ」、というコーランの一番初めのところです。
Tさん 翻訳しちゃいけないと聞いていますが。
ナセル 微妙なニュアンスが伝わらないので、そう言われていますが、世界じゅうの人がアラビア語堪能なわけではないので、翻訳で学んでいます。ただ、ホーリーコーランという、コーランの表紙。この表紙の訳は載せてはいけないし、このままの形式を守らなければならないことになっています。聴かせるもの、という感覚ですので。美しいコーランを聴かせるコンテストもあるくらいです。
Nさん さっきは、歌っているみたいでしたが、どなたがやってもそうなのですか?
ナセル いちおう節のようなものはありますが、国によっても節は違うと思います。母語によって特徴が変わるので。中国人のコーランは独特だったり。中国はシルクロードの最終地点なので、千年以上前からイスラム教徒がいてコーランも詠まれているんですけれど、たいへんユニークです。
息継ぎの場所は決まっているので、その場所まではオリジナルというか。パキスタンの人のコーランと、エジプト人が詠むコーランはだいぶ違います。
渡邉 私たちは祝詞を詠みますが、大学のときに習ったのは、なるべく抑揚をつけるなということでした。たとえば私と木村君とでは、祝詞の詠みかたも変わっていっちゃうわけです。先代の教えかたにもよりますし。抑揚の元になるものはあるのか、気になりました。宗教者なり誰かが、何かを詠みあげる、というのはどの宗教でも共通していると思うので。
ナセル イスラムは聖職者不在なので、誰が詠んでもいい、というところで、むしろ幅が広がるのかもしれません。
Okei 神道も江戸時代は交代で村の人がやっていたと聞いています。
渡邉 そうですね。連番とか。
ナセル 全員が聖職者。モスクを管理する人がいるだけです。それはあくまでも管理者であって、一般の信徒より一段上に立つという意味での聖職者とは違うんです。
一同 ふ~ん。
棟方 女性に対する規則、さきほどのエンバーマーが女性じゃだめとか、特別な何かがあるんですか?
ナセル 男女平等ではないけれども、男女同等なんです。性の差を認めた上での、その差を補うものです。女性は魅力あふれるものなわけです。男性の下心に火をつけちゃいかんぞ、ということで、髪の毛隠すんです。お祈りしているときに下心が出ると、お祈りにならないし、女性はおそわれる恐れがでてくるので。だから、隠すのが決してマイナスの意味じゃないんですね。
棟方 身を守るため、ということですね。
ナセル 男性が我慢すればいい、という理屈もあるでしょうが(笑)。
髪の毛出して短パンで歩いてるお姉ちゃんをみると、イスラム圏の人は、「裸同然だ」と言います。実際に、日本のレイプ率は夏場が圧倒的多いわけで、露出度が問題となっているのは確実ですから。
つまり、性弱説なんです。人間は生まれながらに弱い存在だと。弱いからこそまちがいを侵さないために、こういうルールをつくりましょう、というのがコーランであり、ハディースなんです。人は、間違えるのが前提なんです。
手をつなぐのがダメというのも、男性の友達が欲情しないようにと。実際は時代によって、ちょこちょこ変わってきています。髪の毛のヴェールについてもインドネシアとかではほとんどしない。髪の毛見ただけで欲情する人が少なくなってきたので、昨今はしなくなってきています。
牧野 規律を決めて、それを防ごうとするのは、仏教もキリスト教も、人間は過ちをおかすのが前提というところは、同じような気がしますすね。だけど現実には、戒律を守るよりも解放が進んできているような。
ナセル 逆に、結婚している夫婦の間では、性はものすごく解放されているんです。4日に1回はしなさいと。月経でもないのにそれ以上あけると、イスラム教徒として失格なんです。あまりにも間をあけると浮気をする可能性があるので。4人まで奥さんを持っていいことになっているので、順繰りだと4日に一度は、と。
ただし、4人の奥さんというのも、いまはほとんど一夫一婦です。一番最初の奥さんがOKと言わないと、2人目はもらってはいけない。全員を平等に扱いなさい、それができないなら1人にしておきなさいと書いてあります。実際は、戦死した友達の未亡人の生活を支えるため、などで複数になることがあるという感じです。好き勝手に4人までということではないんです。
Okei イスラム教では自死が少ないと聞きますがなぜですか?
ナセル 仏教だと、自殺はしちゃいけないと書いてあるか、書いてないという論争になると思うんですが、イスラム教では自殺は地獄行きだ、とハッキリ書いてあります。ただ、それ以上にいけないのは、自殺する人を止められなかった人。借金で自殺した人がいたとして、お金があるのに、その人を助けなかった人は、もっといけない。だから、お金に困っている人は、堂々とお金をもらっていいわけです。
日本人的感覚だと、神社とかでお賽銭チャリンと入れて、そこからお金を取ると賽銭泥棒ですよね。でもイスラムでは、その宗教施設に対してのチャリンではなく、神様へのチャリンなので、そこからお金を持っていっても、泥棒じゃないんです。文句を言う人はいない。
お金っていうのは、神様がつくって、人間が預かって使っているだけのものだから、寄附するっていう行為は、一度神さまに返したことになるんです。賽銭箱から使うのは、神様に返されたお金をもらって使っているだけなので、責める人はいないんです。
オスマントルコの時代にはサダカの石っていうのがあり、各地のくぼんだところにその石があって、その下にお金を入れていくんです。お金のない人はそこから取ってもらっていく、たまりすぎたら政府が取っていろいろなものをつくる。だから税金がなくても世の中がまわってたという話もあります。
棟方 施しをすることに、特別な意味がありますか?
ナセル 施しに意味があるというより、「施しをしないこと」が悪なんです。お金っていうのは自分のものではなく神様から委託されたものだから、お金を流通させないで、自分のところでストップさせているのが罪なんです。
Okei お寺も、中世の時代にはその流通させる・施す機能をもっていたように思いますが。
ナセル ちょっと前に、ニュースで1円賽銭泥棒した男逮捕、というのがありましたが… 赦してやれよ1円ぐらいで、と思うわけです。
松本 私有という概念はあるんですか?
ナセル 私有というより、預かっているだけなので、委託です。
松本 お金に関してだけ、ですか?
ナセル 服のような俗世的なものに関してはちょっと記述まではすぐにはわからないですが、果樹園とかモノもすべてです。
松本 お金について特別な意識はあるんでしょうか?
ナセル ともかく貧者救済、ということがあちこちに書かれているんです。もし余裕があれば、不要なものは施しなさい、最低限の生活、つまり「汝らと汝らの家族が明日を迎えられることができるのであれば十分である」、宵越しの金を持たない、という江戸っ子の感覚に似たことが、コーランに書かれています。
松本 そうですか。利子が発生するのはいけないことだというのを聞いたことがあるので、お金について特別な考えがあるのかと。
Okei イスラム銀行は利子を取らないですね。
ナセル 働かずに儲けることは、許されないので。
棟方 貧しい人は施されますが、働かざる者食うべからず、というのはないんですか?
ナセル 仕事のない人はモスクで働くので、働かない人はいないのです。だからモスクはいつもきれいなんです。時給とかそういう感覚はないですが、何かしてもらったら、何かしようという。
ほぼ全員 なるほど。
Okei 私もお寺さんからアイディア出しの会議に呼ばれたりしますが、「こうやって相談して、企画料みたいなものはどうすればいいの?」ときかれることがあるんですが、「それは行政書士業務ではないし、楽しくてやっているだけなので、いりません」と。「その代わり、大地震で家が壊れちゃったときは、お寺に泊めてくださいよ」と半ば冗談で言ったりすると、「そんなことでいいの? もちろんOKだよ」と。
そういったことは、すべてのお寺に可能だと思うし、また課税されない宗教法人であるということは、そういうことをやってくれないといけないんだと思うんです。檀家さんから会費のように墓地管理費だのを取って、それで成り立っていくというのではなしに……。
東 すべてのお寺がそうなるべきというのはその通りです。ただ現状、被災されているとか特別の事情があれば、お寺に来てもらってお泊めすることは不可能ではないけれども、ずっと解放する、ということについて家族の理解を得るのは難しいものがあります。
その意識は変えていかなければいけないと思っています。お布施というのが、もらえて当たり前というような意識がどこかにあって、在家の商売と変わらなくなっているのが問題だと思います。
Okei 30年くらい前は、一般の家庭でも、よその人が下宿していたりということが平気だったじゃないですか。それが核家族やマンションのほうが主流になってきて、廃れました。でも、いまの若い人は不景気も手伝って、シェアハウスという暮らし方を始めていますよね。一度価値観がガラッと崩れれば、また、社会の財をシェアしあうという発想も可能になるのでは。20代の大石さん、いかがでしょう?
大石 私は実際、友人とシェアハウスで暮らしています。もし大地震が来て、たまたま自分たちの建物が難を逃れて、知り合いに被災して住めなくなった人が何人かいたとした場合に、狭くはなるけど、一緒に暮らすというのはたぶん受け入れられると思います。同世代の仲間も、そういう心情の人が多いと思います。
Iさん うちは一般家庭ですが、毎週土曜日になると、「誰?」「なんでいるの?」という状態になるんです。結婚して今の家に住んでからは、ちゃんと皆電話してから来るようになったんですけど(笑)、実家は下町の平和な地域で、夜中にカギがあいていたりで、オープンな家でした。
Okei こういう一般のかたのお話をうかがっていると、「お寺だけど、家族がいるから閉ざしていなきゃならない」、という感覚は、ほんのここ20~30年の、短い間の話じゃないかと思うんです。
税金も取られていない(誰もを助けるべき)施設なのに閉ざされていて、しかもお経を唱えるだけで、この不景気においてはかなり無理をしなければ出せない金額を要求されたりするので、不信感が募るという構造になっていると思います。
Iさん あと葬祭という仕事を通して感じるのは、若者の宗教離れというか、お寺からの距離がとても乖離しているのを感じるんです。パワースポットには行くけど、お寺を大事にするというのとそれとは、別次元の話だったり。
春日部 建築の世界でいえば、30~40代の人たちも、コーポラティブハウスで、敷地を探して、人間関係を築く人を集めて、10組くらいで住むという動きがあります。ですから、20代に限った話ではないかもしれません。子育て世代にも、「隣人の顔がわかっていたほうがいい」という発想があって。
Okei 3・11を境に、開かれたお寺というのは増えつつありますが、一般の人が他人との垣根を壊していく動きに、もっともっとついていってほしいという感じはありますね。
大石 ただ周囲をみると、オープンマインドになったがゆえの弊害というのも感じます。そこに入り込んでくるネットワークビジネスとか、カルト宗教があったり。自分がいまの生活では苦しい、将来に不安がある、という人を救うふりをして近づいてくるのがカルトでありネットワークビジネス。私のまわりでも、カルトはいないんですがネットワークビジネスを始めちゃう人は少なくありません。それを始めてしまう根底にあるのは不安ですよね。
Okei そこをお寺や伝統宗教が救っていないからでしょうねぇ……。
Iさん (他者と)近づきたいの、遠のきたいの? どっちなの?っていう感じはありますよね。
Okei 一人称の救い(あなたがラクになるにはこうしなさい)と、あまねく命につながる救い、というのは違うんですが、伝統宗教そのものが力を持っていないいまの日本では、その区別がつかない人が多いと感じます。ネットワークビジネスっていうのは、「あなたが儲かれば、ほかの人は蹴落とされてる」構造ですよね。資本主義で勝ち組にいる人じたいが、そういった構造そのものですし。新興的な宗教の多くも、「あなたが何かをしなくても、この宗教を信じない者は地獄に堕ちるから大丈夫」というような、一人称の救い構造になっている場合が多いと思います。
そこを、ナセルさんの言うイスラム教の“お互いさま精神”というか、財は社会で分けあうといった発想に学ぶと、突破口が開けてくると思うんです。
ご自身もよくおっしゃってますが、イスラム教徒の中でもナセルさん自身、かなり極端なほうだとは思うんですよ。イスラム教徒でも、もっとカジュアルに暮らしている人はいっぱいいると思うし。ただ、お寺や神社が正月三が日やお盆・お彼岸にしか人々とつながっていない状況で、伝統宗教の原典に回帰してみる、という意味では、とても刺激になると思ったんです。
ナセル イスラム原理主義って何? という話がありますが、イスラムも解釈のしかたでいろいろに分かれるんです。僕は、むっちゃ穏健派人権派ですが、そうではない側の原理主義が危ない方だと思われてしまいがちです。お互いに共通しているのは、行動のよりどころをコーランかハディースに置いている、という点です。ただ、今の日本で「イスラム原理主義」と言うと、危ない方でしか理解されないという現実はあります。しかし、対極にいますが僕も、コーランとハディースを基準にするという意味で、原理主義者です。
東 たしかに原理主義というと過激派、とつながっちゃう感覚がありますが、どうして過激派が派生していくんでしょう。
ナセル タリバンの主張、どうしてああいうことをしているか、知っていますか?
Okei 資本主義体制への反発?
ナセル 近いかなぁ。原点にあるのは、国民国家体制だと思うんです。人間という小さな生き物が、広大な大地に勝手に線を引いて、こっからここはオレのもの、一歩変わるとルールが変わる、というようなことへの反発。それっておかしいよね、というイスラム的な感覚です。それは、確かにわかります。アメリカとメキシコなんて、線一本超えたら生活レベルがまったく違う。その線を引いたのは誰ですか? という。
ただ、それだから爆破しちゃだめでしょう、ということですよね。でも、あの人たちが理解不能な人たちであるという感覚は、僕にはないです。主張としては、わかります。手法が悪いだけで。
Okei かつてキリスト教では十字軍もあったし、日本の仏教だって本願寺ががんばったりしたじゃないですか。宗教が成熟していく過程で、一度通る道なのかもしれませんね……。
ナセル 戦う構造を完全に否定できるのかといえば、日々テロで子どもや非戦闘員が殺されていっている状況で、たとえば自分に置き換えて考えると、自分の子どもがもし無惨にも殺されたら、僕だって間違いなく相手を殺しに行くなと思うし……、それは一般的に誰もが持ってる感覚でしょう。
Okei じゃあ私は普通じゃないのかな……(笑) 子どもが誤飲とかして死んじゃうかも、とヒヤっとする瞬間て、どこの家庭にもあるじゃないですか。そういうときに私って、「あー、たった8ヵ月のつきあいだったけどありがとう」ってどこか達観しちゃってる自分がいて。もちろん抱えて小児科まで走るんですけど、走りながらも達観しちゃってる自分がいるので動揺してないんです。でも、それが妙に非人間的な気がするときがあって……。仏教に浸りすぎたのかもしれませんが。
だから宗教は、人間の力では救いようがない死とか苦しみに際して、動揺したり混乱したりすることは防いでくれるかもしれないけれど、そこに入り込みすぎると、「誰でも持ってる感覚」からは離れて、普通にみれば「妙に冷たい人」になっていく。
逆に考えたら、宗教思想でつながっている人たちが武力を用いるのは、やっぱり宗教意識とは別次元のつながりになっていってしまってる気もしたり。
そもそも、女・子どもが殺されると無差別殺人だと騒ぐけれど、戦争映画なんかでは特攻に行った少年の家族がのちのち悲しむシーンが頻繁に描かれていたりしますよね。男子なら殺してもいいのかと言っても、その男子には母も妹もいるわけで、女・子どもを守ると言うならそこまで救済しなきゃ矛盾してる。矛盾が生じるのは人間ごときの力でなんとかしているからで、そこまで救済できるのって、究極的には宗教なんじゃないかと。
ナセル 線引きは非常に難しいでしょうけれど、非戦闘員を殺すというのはコーランにおいても否定されます。でも、イスラエルが1940年代に建国される前は、千年くらい平和だったわけじゃないですか。だから、最近の状況だけを取り上げて、「だから宗教は危険」というのはおかしいと思います。
Okei そうですね。
Tさん 僕は、お坊さんがたが、イスラム教の中での原理主義に対しての不思議のまなざしを向けているのが禅問答的な感じがして、おもしろいなと。
たとえば日本の仏教は宗派に分かれていて、このことについての解釈はどうなるんですか?などと問うと、宗派が違うのでわかりません、というような声も聴きます。仏陀が何を話し、何を伝えていたかというのを宗派を超えて原典回帰したらどうなるんだ、どうして壁を超えられないんだ?と思います。
宗派の線引きで争ったりしているのは、本当に後世の人間が勝手にやっていることですよね。
ナセル すべての宗教が原典回帰したら、平和な世の中になりますよ。
松本 日本仏教の場合、釈迦原理主義は成り立たないんですよね。
日本仏教にも原理主義はいくつかありますが、それも宗派ごとなんです。日蓮原理主義や親鸞原理主義はありますが、釈迦原理主義はないんです。宗祖絶対主義みたいなものが簡単に生まれてしまって。
Okei 私はそこを壊したいので、お寺で講演させていただくときにはスッタニパータとか引用して、「お釈迦さまはそんなこと望んでいませんよね」と言ったりするんですけれど。
棟方 原理主義っていうと、何を原理とするんですか?
ナセル 僕は、おおもとの経典だと解釈しています。ロールモデルはどこに置くのか、ということです。法然さんにするのか、親鸞さんにするのか、それともお釈迦さまにするのか。
松本 これこそが仏説だ、というのが確定できないので、仏教(釈迦)原理主義は成り立たないんです。宗祖はこう言った、というのは確定できるけれど、釈迦の言葉を集めたものがすでに宗派によって違っているので、釈迦原理主義が成り立たないんですよ。でも、宗祖の言葉は確定できるので、どれを信じるかによって原理主義ができるわけです。
棟方 そこは、宗祖だから「人」なんだ……。
牧野 小乗仏教(上座部)はどうなんですか? 密教系は小乗で、原理主義的じゃないんですか。
Okei 日本の仏教、とくに教科書では、いま牧野君が言った順番で教えられることが多いと思うんですが、なんと実際とは逆の順番なんです。私も歴史の授業で、「天台・真言は小乗仏教だ」と習った記憶があるんです。ところが、それは教える人がわかっていないからそうなっているのであって、実際、大陸では浄土教のほうが先に発展していて、あとで派生したのが密教なんですよね。いまはわかりませんが、30年前の教科書は、大きく間違って書かれていたと思います。
日本では、仏教美術史みたいな形でしか教科書に出てこなくて、宗教の時間として習うわけではないから、あまり問題にはならないんでしょうが。
牧野 そうなんだ。
Okei 戒律を守るから原典に忠実なのではなくて、どうして肉を食べる(食べない)のか、どうして妻帯する(しない)のかを、はじめの一歩に立ち返って考えるかどうか、が原典主義であるかないかの違いなような気がします。
棟方 自分の宗派の戒はわかっているけれど、それが他宗派あるいは他宗教から見てどうなのか、っていうことも含めて見つめてみる、ということでしょうね。
ナセル だから、宗教間対話は重要だと僕は思うんです。
ただ、そういった宗教間対話のステージに立つ以前、戒を意識する以前のお坊さんは、僕のまわりにもいっぱいいます。ここにはいらっしゃらないと思いますが。
歓楽街で飲み歩いてばかりしている僧侶は知り合いにも複数いますし。目の前に病人がいても手助けしようともしないのに宗教者という顔をされると、さすがに怒鳴りつけたくなります。
前田宥全(曹洞宗僧侶) ちょっと私の考えを言わせてください。その人が救わないなら自分が救えばいいのであって、それをしないお坊さんに対して責めるということも、する必要がないというのが仏教の考えだと私は思います。
ナセル ただ、その托鉢したカネで夜飲み歩いているとわかっているような人の場合は……。
前田 そうであっても、誰も責める必要はなく、そこに居合わせたなら自分が助けるというのが仏教の教えだと。
山﨑雄一(行政書士) 宗教者であるから云々よりも、人間としてどうなのかという話でもありますよね。
棟方 人間としてどうなの、になる境目のところで、「お前が悪いんじゃないか」と、他人を指さす視点から、対立構造という分かれ目が出てくるんじゃないかなと思います。他人じゃなくて、自分だけでいいじゃない、というのが、どの宗教でもあるんじゃないかと思いました。
ナセル イスラムの場合はコミュニティの力が強いので、個人個人が戒を守れば、といったようなこととは少し違う面もあるかもしれません……。そのあたりのさじ加減は、人それぞれだと思います。
Okei 子ども社会でのいじめなどでも、似たような構造ってあるじゃないですか。自分の友達が、許せないようなことをしていたとして、その子を責めたり先生に言いつけたりというのがどうかというときに、相手の子や親の顔もわからない場合、私も「そういう子はお天道さまが見ていて勝手に転んだりするようになっているから大丈夫だよ(あえて言いつけなくてもいいよ)」と言っちゃうことがあるんですが、それが前田さんのおっしゃったことに少し近いんでしょうか。人間どうしで成敗しなくてもいいというか。
そうしたら、イスラム的にいえば、神様が成敗してくれるから、人間ごときが線引きしなくてもいい、ってことになりますよね?
ナセル そうですね、たしかに先の例は、僕の世俗的な恨みでした。以後、気をつけます。
前田 たとえば目の前で女性が倒れて誰も助けなかった。目の前には托鉢僧がいて、それなのに彼は助けなかったというのがニュースになったら大問題かもしれませんが。
ナセル もし彼がそういう事態に巻き込まれたとしたら、イスラム的には「カドル」と言いますね。運命、因果みたいなものです。
渡邉 仏教にしてもイスラム教にしても戒律がついてくるじゃないですか。神道は戒律がないので、戒律ってなんなのかな? と思うんです。それが引き金でいろいろな問題や対立が起こるけれど、なんなんだろう?と、客観的に漠然と疑問に感じました。
Okei 神道で経典に当たるものというと?
渡邉 古事記や日本書紀を参照しなさい、となりますね。歴史書というか、読書の域です。
12月の三田の家のときにもあったのですが、仏教もイスラム教も、法名をつけたりという契約があっての宗教ですよね。われわれは悟りを開くために神主になっているわけではなく、一般の人と神さまの間に入ってつなぐのが仕事で、死んだときですら、新たな名はないんです。ルール程度はあるけれど、戒律というようなものはない。
ナセル 戒律というと厳しいもののようですが、イスラムの経典も、ロールモデルでしかないんですよ。戒律というよりも、人生という舞台を演じるための台本、説明書だと思います。
前田 私も、仏教の戒律についてはまったく同じ考えです。私にとってのルールは、渡邉さんの言われた「ルール」と同じような、人が生きていくために一応抑えておいたほうがいい程度のものととらえています。
それは、人が生きていくのに理屈ではない場面があるから。死にたいときだってあるし、自分の子どもが目の前で殺されたら、相手を殺したいと思うかもしれない、でもそれが無限に繰り返されてはいけないから、殺してはいけないという戒がある。
お釈迦さまが不殺生戒を言われたのも、特段の理由はないと。一つの理由として、人が腐っていく姿、苦労していく姿をみて、人生を悲観して命を絶ってしまう修行僧が続出したので、そう決めざるを得なかったと聞いています。
小難しいようなきちっとしたもの、堅苦しいことではなくて、生きていくためには最低限こういうことが必要ということなのではないかと。
Okei 戒律を頭でとらえてしまうと、「戒にはこう書いてあるから、自殺はなにがなんでもいけない」となってしまうけれども、前田さんのように柔軟にとらえていけば、そこは争いにならなくて済む、ということですね。
神道は、たまたま戒のようなものができあがる前に仏教や儒教が入ってきてしまったから、そっちで日本人の精神構造が支えられていったので、神道そのものには戒のようなものはできあがらなかった、という学者さんもいらっしゃいますね。日本列島にもし、もっと長いこと神道しかなければ、神道にもそういったルールが明文化されていたのかもしれません。
そして、戒律を「とりあえずあるんだよ」というようにとらえて、破ったあとはどう救済されるんだよ、ということが浸透していかないと、いつまでも日本では「宗教は怖いもの、触れないほうがいいもの」となっていく、ということですね。
ナセル だから対話が必要なんですよね。日本は、宗教的=マイナスのイメージが植え付けられているんですよ。けれど、人は宗教なしで生きていけるのかと。
Okei <ひとなみ>で今月上旬に開催した信州座談会では、「動物と人間の違い」のように語られましたよ。牧師であり医学者でもいらっしゃるラザロ保科さんのご発言で、「人の思いを超える何者かの存在に気付いた存在になったとき、動物が人になった、という社会学の解釈がある」と。
海外生活の長かった牧野君、いかがですか? 海外では無宗教と言いづらいという空気はいまもあるんでしょうか。
牧野 僕の体験からは、必ずしもそうとは言えないかな。アメリカでも宗教が必要という感じは薄れているのかなと。それぞれのバックグラウンドは尊重するけれども。
Okei ニューファミリーが最近、ビリー・グラハム系の教会に熱心に通っている、といった報道を耳にしたことがあるけれども、都会ではそうした傾向も、あまりないんですか?
牧野 私はサン・ディエゴにいましたが、あまり感じませんでした。
ナセル でもね、自殺が起きた物件とかって、とても安く借りられるじゃないですか。なぜかといえば、皆そこに霊の存在とかを気にするからであって、それは都会でもあるわけですよね。
Okei 無宗教と言いつつ、超越的な存在をまったく気にしない、ということではないんですよね。むしろ私は、宗教意識があるので事故物件でも安ければ借りたいですけれど(笑) 本当に何か起こるようなら、お祓いとかしてもらえばいいわけですし。
松本 宗教嫌いというのは所属が嫌いなのであって、宗教が嫌いなんじゃないんですよ。
Tさん 宗教がなくて生きていけるかという問いですが、乱暴な言い方をすれば、生きていけますよね。宗教という枠をはずしても、すがりたい、という本性はあります。人間として自然発生的にあらわれる原理的なものは何かというと、人間はやっぱり枠組みとか指針みたいなものがないと不安。だからこそ宗教というものが生まれてきた、という解釈を僕はしています。
乱暴な言い方だけどと言いましたが、歴史をたどるとそれはありえない、ということだと思います。
西洋で自然科学が発生したのも、神に近づきたかったから発生したわけです。その前にはアラビアの高度な文明があって、それへの恐れみたいなことから十字軍につながってと。自然科学が15世紀以降発達する前は、アラビア、中東の文明のほうがはるかに発達していて、ヨーロッパはそれに対する恐れを持っていた。宗教がなければいまのこの世界はなった、というのは、歴史をみれば事実なのかなと。
Okei いまの日本の宗教=危険という人たちも、資本主義という信仰は持っているわけで。
Tさん あるのは、「すがりたい」というもの。
ナセル それがいまのスピリチュアルブームにもつながっているんでしょうね。
Tさん 「すがりたい」という人間の本質的なものに訴えかける何か、ですよね。
ナセル でも海外で「無宗教だ」と公言すると、社会主義者だと思われて引かれることはありますよね。
Tさん 無宗教が社会主義者と思われる、というのは興味深いですね。実際に、共産主義の人は、外国でも「自分は無宗教だ」と言います。
ナセル 無宗教なら無宗教でいいんですけど、無宗教と断言することのリスクをわからずにそれを言う、というのは問題だと思います。
棟方 私自身は特定の宗教信仰はないと言いましたが、理屈を超えているものに対する恐れなり、そうしたものを信じようと思う気持ちはあるわけです。特定の枠組みの宗祖は知らないけれども、特定のものを信じることがハコに入る、枠に入る、それ以外のものを拒絶するかのように育てられてきた、というのはあるかなと思いながら聞いていました。
日本では、特定の宗教を信じている、と言うことが逆にリスキーであるというか。
Okei いろいろな宗教や習俗を混ぜこぜにできる、というのは、日本にいると日本だけかと思うけれども、ネパールあたりもそうだと聞くんです。土着の宗教で、白い粉を塗りつけたりするものと仏教がまじっていたり。最近、奈良時代を舞台にした松本清張の小説とか読んでいたら、仏教ってそもそも中国に入った時点でゾロアスター教とかいろいろ混じっているし、むしろその地域地域でいろいろなものと融合するほうが自然な流れなのかなと。なぜ日本人だけが、ごちゃ混ぜにすることを恥じるのかなと。
イスラム教でも、これだけ地域がひろがってくればヴェールをかぶらない人たちが出てきたり。
逆に、宗教者のほうが枠を設けているというか… 一般のかたは、御神輿もかつげば菩提寺にもお参りに行くし、「宗旨はなんでもいいです」と思っていたりするけれども、宗教者のほうが「うちの宗派ではこうだ」と違いを強調するような。
Iさん ここにきて、宗教ってわからなくなりました…
ナセル その答え出したらノーベル平和賞とれますし(笑)
Iさん それぞれ主義主張があって、それぞれいいところがあって、という解決でしかないのかな。
牧野 日本人としていままで(海外を含めて)生きてきて、あ~ヤだなと壁をつくっちゃった瞬間は、「うちの宗教にこない?」と言われた時でした。幸福の科学とか。彼らともうまくやっていくために、私は独自の方法を取りましたが、普通の人だったらそこでアウト、となるかもしれない。
大石 幸福の科学って、マスコミだと思うんです。人に好かれる方法ばかりを考えている。遠くからズームで撮ると、人が少なくても熱狂感がみえるとか。そういう広告代理店の仕事に似たものがあると思います。テクニックを駆使しているので、宗教とは違うなと思いました。
Okei それはとても資本主義的な手法であって、宗教的な救済とは程遠いものであるということですね。ただ海外では、日本人を見ると「大作先生元気か? 幸福の科学元気か?」と問われることがあると、バックパッカーのかたに聞いたことがあります。日本人の大半は、いまどき創価学会か幸福の科学なんだと思っている人も海外にはいるかもしれない、ということです。
Tさん 人を説き伏せるということにおいて幸福の科学などがサンプルのようになってしまうとやはり偏りがあると思うんですが、日本人の特性というのは無視できないと思います。
たとえば非営利組織の運営で、アメリカのマイクロソフトの元重役だった人が、ネパールなどで学校や図書館を作ったりしているんですが、寄附に依存しているんです。日本で寄附を募るときに、説明しても断られて、また同じ人にお願いして断られたら、そのあとどうします? Ask、Ask、Askって言ったんです。
そのような態度は、日本人は取りづらい。1回か2回でやめてしまいますよね。自分の信念に基づいて情熱的に相手を諭すということには、日本人は比較的不得手だと思います。幸福の科学を手本にはしたくないですけれども、宗教以外の非営利組織を見ても、日本人はまわりの目を気にして自分の信じるところに突き進まない側面があると感じます。
自分が発進するための閾値値の低さもありますね。アクションを起こすための熱がない。投票率の低さとか、反原発についても、表現のしかたが熱くない、なぜなんだという意見がありました。
Okei いっぽうで、社会学的に見ても「そんなことをしたらムラで嫌われますよ」というような社会性の中で培われてきた日本の伝統仏教は、ある意味、現代的手法を用いずに、相手を熱心にアピールすることもせず、相手を尊重し、「待ち」の体制でいたほうが、日本人の精神には合致しているのかもという気もします。鎌倉時代の宗祖のみなさんは、もちろん鐘を鳴らしたりして、もっと熱くアピールしていたと思うんですが。
Tさん 三田の家で言えば、地域と大学のつながりを実現していくときに、少し前なら「町内会」で情報を回せばよかったけれども、いま若い世代には、「町内会」というくくりはアピールしなかったりするんです。町内会も守りつつ、地域のくくりを超え、多くの人で共有できるNPOみたいなつながりも仕掛けていかないといけないなと思ったり。
Okei ここのカフェの2Fの鯰組という建築事務所は木造の新建材を使わない仕事中心で、まさに資本主義的大量生産型とは逆行する仕事をされていますが、同時にカフェを経営して、人と人とを「つなぐ」ということにも力点を置かれていて、三田の家とも似ているんですよね。
大石 そうですね。会社なので利益も考えつつ、会社のミッションの中心には、そういったことがあります。もともとは建築に関わる人って、地域に場を提供したり、地域の人をつないだりと、もっと「おせっかい」だったそうなんです。
Okei 私は、そこに「お寺的なもの」を感じるんです。この場所も、お寺にいるよりお寺っぽいという気がしますし。大手資本主義的なものに疲れた人たちが自然と集まってくるというか。
まもなく時間なのですが、最後にみえた古市さん、ご意見ありますか?
古市理奈(日蓮宗僧侶、NPOびじっと理事) 僧侶になってまもなく1年です。日蓮宗の僧侶と、NPOの理事長やってます。
日本人て非常に曖昧だと思うんです。先ほど来のいろいろな問題も、宗教民俗学を読まれると解けるように思います。信仰についても、土着信仰から成り立っているものも非常に大きいです。人生儀礼とかも、生と死で同じことを二度やっていたり。
宗教って、古事記は天皇一族がやってきて統制していく、そのときに土着民を取り込んでいく。秦氏はキリスト教だったかもしれないと言われてもいるし、曽我氏=仏教、物部氏=神道。それをうまく融合しているのが日本ですが、地域地域で「無宗教」といいつつ、宗教儀礼がどっぷり根づいています。
それが生活の一部であって、ここに何がおわすのかわからないけれども心揺さぶられる、自然に頭(こうべ)が垂れますよ、ということがある。しかし心が豊かでなければ、それに気づくことすらできない。自分のアイデンティティがなければ、気が付くことすらできない。
では、私たち宗教者はどうすればいいのか? アイデンティティを広めて伝えていく、その導き手でなければならないと思っています。
押し付けたらだめですが、気づいてもらう。私たちのアイデンティティはなんぞや? をひろめるのは、仏教でもキリスト教でも同じだと思います。
いまこの時代を、私たちはどう生きていけばいいんだ? ということを、導き手であるべき僧侶が説いていない。新興宗教がどうして人の心を掴むかといえば、私たちがなんのために生きているのか、存在価値を明示して、アピールして、鷲掴みにしていくわけですよね。それを伝統宗教はできていない。教えは説いているけれども、役に立つものであるかのように伝えられていない。そこが問題なんだと思います。
Okei アイデンティティに気づいてもらうことが宗教の役割だというのはその通りだと思います。ただ、新興宗教がアピールしていても、それは一人ひとりのアイデンティティを本当に開いているかというと、それも違う気がします。
ここにも何人もいらっしゃいますが、本当は、伝統宗教のお坊さんでも、一人ひとりの問題意識に答えているお坊さんがいるんです。いるけれど、届いていない。知られていない。そこを広めていきたいんです。
こんにちは。今日参加しました棟方あさのです。 ナセルさんをはじめ、さまざまな立場の皆さんの、宗教、神道のお話を伺い、充実した時間を過ごせました。ありがとうございました。 戒律について、生活の姿勢を整える、実際的にその人を守る・支えることにつながるのではないかと思いました。いままでの認識を少し改めました。 場と支え、ということについて帰る道すがら、ずっと考えていました。 宗教的なもの、ひとにとって何らかの本質につながっていくような、とりくみや思想についても思いをいたらせました。まだまとまりませんが。 今後も機会をみつけて参加させていただきたく思います。 okeiさん、お招きありがとね。また、ゆっくり。この活動と、なにか「つなぐ」ことに献身している姿勢を、熱烈支持します。
昨年12月に三田の家でイスラーム圏からの留学生と交流し、今年1月にイスラーム教徒のナセル永野さんと知り合ったところから、この企画は生まれました。
また、6月初旬に開催した信州座談会では、ひとなみ座談会初となる、キリスト教牧師さんの参加もあり、<ひとなみ>の活動は、「超宗派(仏教内部の)」から、「超宗教=宗教間対話」へと、大きく動いた2012年です。
さらに今日は、三田の家にも参加された神職の渡邉さんからも、さまざまなご発言をいただき、仏教―イスラーム教―神道 の宗教間対話が実現しました。
これからも、さまざまな立場・思想のかたがたのご参加を、お待ちしております。