お坊さんと、常識を覆して生き生きしよう!

宗教に壁をつくらない日本人(Free-for-all)

20歳のアメリカ人留学生が見た、日本人の宗教意識

多忙な経済社会において、欧米でも教会に通う家庭は減っている。

「無宗教(信仰をもっていない)」ということを公言するのは日本人だけだと思っていたが、実際どうなのか?

セントフロリダ大学から社寺観光のため来日中のMichelle Allemanさん(20歳)に、インタビューしました。

【Okei】Sanpai Japanのサイトに掲載されていたあなたのコラム「日本人は宗教的か?」を読みました。このなかであなたが書いたfree-for-allというキーワードに、とても興味を持ちました。
日本では、お寺の中に鳥居があるなど、仏教と神道という異なる宗教が自然と融和している。日本人は、信仰というよりも、平和や安らぎを得るために宗教施設を利用しており、安らぎを感じるため別々の宗教の側面が有用だと感じれば、無理なく両方を取り入れる。
つまり、日本人の祈りは、宗教に壁をつくらない(free-for-all)のだと。 祈りが固有の神に対してではなく、別々の宗教に開かれているというのは、やはり欧米からみると珍しいことですか?

【ミシェル】そうですね。私たちにはとても珍しく感じられます。日本での社寺めぐりを続けていたら、神社はスピリチュアルな場所で、お寺はそれよりも宗教的だという感じはつかめてきました。けれども日本人は、仏教徒でなくても、寺に足を運ぶ。

【Okei】それはすでに、平均的な日本人より敏感です。神社とお寺の違いがわからない日本人だって、けっこういますから(笑)

聖書のようなルール(規範)がないのに
手を合わせられる、しかも
日本人はモラルに厳格なのが不思議

【ミシェル】Kamiに祈る、というのは私たちがGodに祈るのとは、だいぶ違う気がしました。祈るのにルールがほとんどない。
一般の人が祈るには、聖書のような教典も必要ない。手を合わせるだけでいい。それも珍しいことです。
しかし、日本人はモラルに厳しいですよね。そのことに私はちょっと困惑しました。

【Okei】言われてみるとそうですね。いちおう、鳥居があれば神社で、神社では柏手を打つけれども、お寺では打たない、というルールはあるんですけれども、それを知らずにお参りしても、「手を合わせておけば間違いない」という感じではあります。
もちろん仏教には経典がありますが、出家した僧侶のためのもので、聖書やハディース(イスラーム教の日常所作を知るための預言者ムハンマドの言行録)のように、一般信徒が読み物として指針にする日常語で書かれたものはほとんどありません。
多くの人が写経に用いる「般若心経」があるけれど、漢語なので日常的に理解できる言語で書かれているわけじゃない。神主さんの祝詞(のりと)も、一般の現代人に理解できる言葉ではないです。
そうか、日本人が宗教をなんとなく「わかりづらいもの」と感じてしまうのは、言葉の問題が大きいのかもしれないですね。

【ミシェル】聖書のような本がないのに、いまでも多くの人が社寺をめぐるということが、むしろ驚き。この科学が進んだ、科学を信仰しているといってもいい時代に(笑)

【Okei】あぁ、そういえば日本は、先進国なのにアニミズム信仰に近いところがあるんです。火の神、山の神、水の神、風神、雷神……、古い骨董品なんかに宿るツクモガミなんてのもあって、ともかく何にでも神様がいる。
日本人が別々の宗教を同時に崇められるのは、その八百万神信仰があるからかもしれません。
だけど、全世界の若者たちがファンタジー系のロール・プレイイング・ゲームで精霊(火・木・水・光・闇などの属性)を扱っているくらいだから、アニミズム信仰って、世界中の若者たちが持っているんじゃないかと感じることもあるけれど。

【ミシェル】いいえ。たとえばギリシアでは、神話を本当に信じている人はいないと思う。私の推測ではギリシャの人の多くはカトリック教徒で、ギリシャ神話の話はみんな知っているけれど、古代の神を信仰はしていない。
それに対して日本人は現代になってもkamiを信じて、神社で手を合わせる。しかもkamiは、トールやオーディンと違って姿や顔さえ想像できない!(笑)

【Okei】あぁ、そうですね……。特定の人格を持った神(God)的なもの、あるいはイザナギやイザナミという神話に登場する具体的な神にではなく、私たちは漠然とした、なにか光のようなものに祈っているのかもしれません。
最近の若い人たちは言われたことがないかもしれないけれど、30年くらい前は、子どもたちは「お天道さまに感謝しなさい」と言われて育ったんです。
たとえば学校でいじめられたとして、泣いて帰るとおじいちゃんやおばあちゃんは、「相手を恨むんじゃない。お前が相手の子に直接仕返しをしなくても、お天道さまがちゃあんと見てて、悪い子は罰してくださるから」なんて諭してました。
そのお天道さま信仰というのは、おそらく神道のkamiのひとりである天照大神が太陽神であるところから来ていると思います。

【ミシェル】おぉ、その直接仕返ししなくてもいい、っていうのはカルマ説じゃないですか!
アメリカでは、神道も仏教も信じてないけれど、カルマは信じてるっていう人がけっこういます。
彼らの信じるカルマ説は宇宙の流れを表すもので、宗教的な意味あいではないけれど、もともとは仏教の教えから来ていると思います。
神道の太陽信仰と仏教的思考が、いったいどう混じったんでしょう?

【Okei】たしかに、仏教の因果応報と同じかも。日本は紀元前の弥生時代から農業国なので、田植えと収穫のときお天道さまに感謝するという土着の信仰は、神話以前からあったんじゃないかと思います。
仏教と神道ということで言えば、神道が先で、仏教が6世紀ごろに後から入ってきたということになっています。
推測ですが、人格のある神にではなく、漠然とした姿も形もないお天道さまみたいなものに感謝をする信仰がもともとあったところへ、やはり人格神を置かない仏教の、いいことも悪いことも起こったことすべてに意味がある、という因果応報のような思想が入ってきたので、すんなり融合してしまったのかもしれません。

【ミシェル】なるほど、日本人が固有の神にではなく、平和や安らぎのために祈る、という理由がわかった気がします。

【Okei】でもfree-for-allといえば、欧米の人のボランティア精神というのも同じように思えますよ。
米軍も2011年の東日本大震災のとき「オペレーション・トモダチ」と言って、私たちを助けてくれましたよね。信仰も違うし、人種も違うのに、トモダチと言って助けてくれたことは、まさしくfree-for-allじゃないかと。

【ミシェル】アメリカ人は、全員ではないけれど、多くの人がボランティア精神を持っていますね。
でも実際は、政府が他国を助けようとしたとき、「アメリカ国内にホームレスがいっぱいいるのになぜ他国をたすける?」という論争は起こっています。

論争があったとき、両方救う方法を考えたい

【Okei】ミシェルはクリスチャンではないんですよね?

【ミシェル】ええ、私は特に信仰を持っていません。神社にも行くし、お寺にも、ムスリムのモスクにも行ける。
私の世代は親がベビーブーム世代で人口が多いんですが、同世代には信仰を特に持っていない人が増えていると感じます。

【Okei】さっきの、国内のホームレスと国外の震災とどっちを助けるかという論争の問題について、どう考えてますか?

【ミシェル】私は、両方救う方法があると思う。アメリカがどの国も助けなければ、私たちも、どの国からも救ってもらえない。
個人的には、対外援助の資金として、アメリカが軍事費などに使っているお金を回せば、国外も国内も救えると考えています。
そうすれば、平和になると、私は考えています。

【Okei】すばらしい。平和思考ですよね、ミシェルは。冒頭にふれたSanpai Japanのコラムも、最後は「異なる宗教をどちらも崇める日本の方法は、最も平和的だ 。
もしこの見方が世界中でシェアされるならば、戦争、喪失、そして苦しみがはるかに減るであろう」と締めくくられていて感動しました。
しかし同世代の中で、あなたは少数派でしょう?

【ミシェル】そうですねぇ、少数派だと思います。(笑)

【Okei】 アメリカ大統領は宣誓するとき聖書に手を置くと聞きます。
アメリカでも信教の自由は大事にしているし、政教分離になっていると思うけれど。

【ミシェル】 アメリカは自由の国。大統領が聖書に手を置くのは個人の信仰によるもので、議会や憲法が強制しているわけじゃありません。
仮に将来、仏教信者の大統領が出現したら、聖書じゃなくお経に手を置くということもあるかもしれない。自由を重んじる国なので。

【Okei】 ここに、こんな本があります(『日本の宗教の知識と英語を身につける』(石井隆之著)。
この本では、私たちが食事の前に「いただきます」と言って手を合わせる、ということについても、1節を割いて「日本の宗教」の一部として紹介しているんですね。「いただきます」と手を合わせること自体、諸外国の人からみれば宗教的と映る、ということに、最初読んだときは少なからず驚いたんです。
しかし日本では最近、給食の前に生徒たちが班長の掛け声で一斉に「いただきます」と手を合わせることも、批判されることがあります。
クラス全員で手を合わせることを強要すると、それとは別のジェスチャーをする信仰を持つ人に、信教の自由を認めていないことになるんじゃないかと。

【ミシェル】 そうですね、私の周辺では、アメリカ人も宗教と政治は分かれているべきと考えている人がほとんどです。
しかし、実際は聖書に手を置いて宣誓する例があるように、日本のようには分かれていない。
ある宗教を国家が強制したり、逆に弾圧したりすることは、ないほうがいい。でも、そのことと、大統領が個人として聖書に誓うというのは別の話。
個人の恣意を超えた宣誓をしているということを表現しているので、私自身は特定の宗教を信じていないしキリスト教徒ではないけれど、不快に思うことはありません。
米大統領は宣誓の際に「聖書」を使うという考えは時代遅れだと思います。いずれは、キリスト教徒以外の大統領が誕生するでしょうから。そのときは、聖書ではなく別の聖典に宣誓をするかもしれない。

【Okei】 おっしゃるように、政治と宗教を区別するということと、宗教を否定するということとは違いますね。ただ昨今の日本では、1995年のオウム真理教によるテロの影響もあって、「宗教の話をすること=胡散臭い」と考える大人がかなり多いように思います。

アメリカでも特定の信仰を持たない若者は急増中

【ミシェル】 アメリカでも、私の世代では特定の信仰を持っていない人も増えていますが、信仰を持っていない人でも、 “bless you”と言うときは、背景にGodを意識いていると言えますからね。

【Okei】 そのときのGodは、お天道さまに近いのかもしれませんね。人間を超えた存在を意識しているというか。「いただきます」と言って手を合わせるのも同じような感覚で、一般的な日本人のほとんどは、宗教ではなくただの習慣だと思っているはずなんですが。ここに、『日本の宗教の知識と英語を身につける』という本があります。この中にも、「Religious Aspects in Japanese Gestures(日本人の仕草における宗教的傾向)」と題して「いただきます」について述べた項目があって。それを読んだとき、「なるほど、いただきますと手を合わせることも、外国の人から見たら宗教的行為に映るのか」と、ようやく腑に落ちました。

【ミシェル】 私もその「いただきます」についての記事を読んで、なるほどと思いました。結婚式ではキリスト教会で宣誓をするのに、子どもが生まれたら神社へお宮参りをし、葬式は仏教でおこなう、というのはとても不思議なことに思えますが、日本人はこの「いただきます」のように、万物に感謝をしているのであって、一つの神を信じているわけではない。

【Okei】 そうです。生きかたの哲学というか、倫理に近いかもしれません。倫理観では、中国から入ってきた儒教の影響もありますし。
ところで、哲学で「主体」を表すSubjectっていう言葉があるじゃないですか。哲学的な主体って、「我思う、ゆえに我あり」の「我」ですから自己存在のこと。
西欧は日本と比較して、個人主義、集団よりも自己の個性を大切にすると教わっているのに、我はmainじゃなくsubなんだ、って議論になったことがあるんです。

【ミシェル】 それはキリスト教の考えですね。mainは神(God)だから、私たちはsubなんです。mainである神の、下にある存在。あれして、これして、と神から使われる存在ということです。

【Okei】 われわれ人間ごときは神のしもべにすぎない、ちっぽけな存在である、と教えている意味では、「すべての出来事は複雑な縁起で起こっていて、100%あなたのせいであるとか、100%誰かのせいということはない」と教える仏教の考えかたや、前述の「お天道さまが見ているから(殴った相手に直接仕返しをしなくてもいい)」というのと同じなんじゃないですか。

【ミシェル】 結果は似ているかもしれません。ただ、一神教の神は完璧で、常に超越的に偉大です。
間違いをおかさない。たとえ何百人殺したとしても間違いではない。
いっぽう神道では神は一人ではなく、神が地震などを起こしても、人はそれを受けとめ赦すという構造でしょう。そこに微妙な違いはあります。

【Okei】 そうですね。一神教とそうでない信仰とで、構造的な違いはあるでしょう。
しかし、畏敬すべき超越的な存在を信仰し、人間存在の限界を意識する、というところは同じなんじゃないかと。
その同じほう、つまり結果としてどうあるべきかに目を向けていけば、神の名前が違うだけで戦争になってしまうようなことが避けられるんじゃないかと。

誰かを否定したくないから、信仰は持たない

【ミシェル】 この神を信じない者は間違いである、ということに着目すると、他の宗教を信じていることは間違いになってしまいます。
信仰に限らず、「〇〇は間違いである」ということを注視しすぎると、争いにつながる。
たとえばアメリカでは、ゲイを異教徒とみなし、イビルピープルとして除外するかどうか、しばしば大論争になります。
でも、いろんな宗教、いろんな人種がいて、どれかを信じると誰かを否定することになる。だから私は、どれも信仰していない、という道を選んでいます。

【Okei】 すばらしい。私も同じです。
仏教の僧侶にお寺のありかたを語ることが多いけれど、出身大学は基督教大学で、熱心にお詣りするのは主に神社です(笑)
ことに、宗教学や哲学専攻ではない、観光学とイベントプロデュースの勉強をしているあなたと、こうして宗教意識について語らえることはとても楽しいです。

【ミシェル】 はい、ありがとうございます。

【Okei】 日本はこれから「お盆」という、亡くなったかたの御霊と出会うフェスティバルの時期に入ります。盆踊りや縁日、いろいろな催しがあるので、社寺めぐりをいっそう楽しんでください。


この記事を書いた人
『いいお坊さん ひどいお坊さん』(ベスト新書電子版, 2011)、『心が軽くなる仏教とのつきあいかた』(啓文社書房, 2017)ほかの著者、勝 桂子(すぐれ・けいこ)、ニックネームOkeiです。 当サイト“ひとなみ”は、Okeiが主宰する任意団体です。葬祭カウンセラーとして、仏教をはじめとする宗教の存在意義を追究し、生きづらさを緩和してゆくための座談会、勉強会を随時開催しています。
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