【ひとことコメント】壬申の乱以後70年近く、戦乱のない時代が続いた。しかし、藤原四兄弟が長屋王を亡きものとした頃から、藤原家の栄華に翳りが見え始める。藤原不比等の子らが天然痘により相次いで逝去。740年、九州大宰府の任に就いていた藤原広嗣が朝廷軍と争った藤原広嗣の乱が勃発。敗退し処刑された広嗣を祭神として祀るのが、今回の訪問先=唐津・鏡神社です。
今回のルート=①(佐賀・唐津)鏡神社➡②虹の松原➡③大宰府跡
藤原鎌足から不比等、そして鎌足の孫である藤原四兄弟=京家・麻呂、北家・房前(ふささき)、武家・宇合(うまかい)、南家・武智麻呂へと栄華は続いた。が、長屋王の変から8年後(塙保己一の記録によれば変が728年なので9年後)の737年、藤原四兄弟が天然痘で相次いで死亡。人材不足となった朝廷を、光明皇后(不比等の娘、聖武天皇妃)の異父兄弟である橘諸兄(たちばなのもろえ=葛城王)が、右大臣として政権を担い、朝廷を牛耳っていた。
橘諸兄は、遣唐使帰りの僧侶・玄昉(げんぼう)と吉備真備(きびのまきび)を朝廷の重鎮として起用。玄昉は、聖武天皇の生母の長年にわたる病を治ことで地位を得たが、女性関係などのよからぬ噂も千万であった。藤原宇合の息子でありながら、遠く九州大宰府の任に就いていた藤原広嗣は、この天皇家でも藤原家でもない怪しげな僧侶とインテリ官僚を朝廷から除くべしとの上奏文を送った。都の聖武天皇は、事情説明のため出廷せよと命じたが、広嗣が出廷しないので謀反と解釈したようである(※)。
そこで聖武天皇は、大野東人(おおののあずまびと)率いる1万7千の大軍を九州へ。広嗣も1万余の兵で応戦するも敗れ、処刑された。
※挙兵は、官軍と広嗣側のどちらが先であったか諸説あるが、衝突したのが関門海峡の西であり、広嗣は3個部隊を用意するも合流して囲む前に朝廷軍が到着している。広嗣が先に挙兵したにしては、聖武天皇の官軍はあまりにも迅速であった。
この乱から6年後、筑紫の寺へ左遷させられた玄昉が憤死。広嗣の祟りと騒がれた。これを鎮めるため、乱から10年後の750年、やはり肥前国司に左遷されていた吉備真備が、松浦国の総社として尊崇される松浦宮(現在の鏡神社)に、広嗣を祀る二ノ宮を創建したといわれる。
なぜかOkeiの家から徒歩20分のところにある、東京都板橋区の赤塚氷川神社にも、藤原広嗣が祀られています(赤塚氷川神社や板橋区教育委員会の表記は『今昔物語』に従って「藤原広継」。板橋区教育委員会によれば、「なぜこの地に祀られているのかは不明」)。この地へ転居してすぐの頃から気になって、2ヵ月以上ほぼ毎日、赤塚氷川神社へ参詣を続けたところ、親近感がわいてきました。佐賀の唐津にある「鏡神社」に広嗣が祀られているというので一路、九州へ。
博多から筑肥線快速(地下鉄姪浜経由直通西唐津行)にて、1時間余りで東唐津へ。炎天下でしたが、初めて訪れる地なので、じっくり徒歩で向かいました。
二の鳥居はうって変わって時代を感じさせるつくり。
8世紀半ばへと、ゆっくりワープします。
磐を穿った立派な手水舎が左右に鎮座。このような立派な手水場は初めてでした。雄龍をあらわす「力水」と雌龍をあらわす「寶水」が向きあって配置されています。
人の手が入っていながら近代的な建材はなく、異世界のごとく清々しい。蝉時雨のなか、古代の御霊と邂逅します。
左手奥には相撲場があります。古い神社には土俵を置くところが多くあります。葬祭と関連があるともいわれます。
一の宮には息長足姫尊(おきながたらしひめ)=神功皇后(じんぐうこうごう)が祀られ、右手・二の宮に藤原広嗣が祀られています。「”松浦なる鏡の神”の社」として、源氏物語「玉鬘の巻」にも登場しています。
夏の盛りに訪れる人は少なく、ゆっくりとお詣りすることができました。
一の鳥居のすぐそばに、唐津市内や東松浦郡の主要遺跡から出土したナイフ形石器や甕棺、窯跡などを展示する「古代の森会館」という資料館がありましたが、今回は午後に大宰府跡をまわって夕刻の新幹線で帰路につくため時間がなく、またの機会に譲りました。
神功皇后が新羅への戦いに際して戦勝祈願されこの山頂に鏡を納められたそうです。
虹ノ松原駅にたどり着く寸前、「虹ノ松原」が存在しました。写真では伝わりづらいですが、虹ノ松原と呼ばれるにふさわしく、じっさい神々しい光にあふれた林です。列車待ちの半時間をここに佇んで過ごしました。
往路は東唐津から歩きましたが、帰路は鏡山を見ながら隣の「虹ノ松原」という駅をめざしました。鏡神社からは、東唐津駅も虹ノ松原駅もほぼ同じ徒歩20分の距離にあります。
1時間に1本しかない列車で天神経由、大牟田線に乗り継いで「都府楼前」へ。
「都府楼前」の駅を出ると、大きな鳥居。鳥居をくぐって直進すれば、大宰府政庁を通り太宰府天満宮に続く「西府詣り」への道です。
めざす大宰府跡は、鳥居から15分ほどのところにありました。
柱の跡、道路の跡が残る平原に立つ。
近代的なものの入らない視界。
ここに都府楼があり、人がうごめき、海の向こうを見張っていた。
山々に古代を思い浮かべることのできる不思議な場所。
父・宇合も同じ職であった縁(※)でこの地に赴いた藤原広嗣は、ここで何を思ったのか。
※ただし宇合は兼職だったため、赴任はしていない。
遡ること11年前の729年。広嗣の父・宇合や伯父・房前が、長屋王(ながやのおおきみ)の邸宅を囲み、妃と子を縊り殺したうえ王を自害に追い込んだ長屋王の変が起きている。藤原四兄弟が天然痘で相次いで亡くなったのは長屋王の祟りとも。
長屋王の変の当時、10代だった広嗣。記憶に強く残る事件であったはず。「長屋王の変⇒藤原四兄弟の死⇒実権が諸兄・玄昉・吉備真備へ」という順序を顧みれば、藤原四兄弟の血筋から政権を奪った諸兄(および聖武天皇)サイドが、四兄弟の子である自分と穏便に話し合うなどありえない、と考えたであろうことは、推察に難くない。
(「後編=南都鏡神社編」へつづく)