お坊さんと、常識を覆して生き生きしよう!

墓じまい、あれこれ

2016年10月3(月)@八王子・延立寺縁側アミダステーション

行政書士として墓じまいをお手伝いするなかで、「御魂抜きはどうされますか?」「それは何ですか? やらないといけないものなんですか?」というやり取りになることが増えています。こういう話は、しなくても皆がわかっていたはず。そして宗教者でもない私がそれを説明するのはよいことなのか?

同じ気持ちを抱える葬祭業者の皆さんと、さまざまな宗派のお坊さん、神職のかたもまじえて、とことんお話ししました。

問題提起:Bさん(都内石材店勤務)
参加者=松本智量(浄土真宗僧侶)、藤尾聡允(臨済宗僧侶)、吉田尚英(日蓮宗僧侶)、名取芳彦(真言宗僧侶)、増田俊康(真言宗僧侶)、渡邉忠道(朝霞出雲大社)、大橋理宏(株式会社大橋石材店代表取締役)、樋口清美(葬祭関連企業勤務、寺ネットサンガ事務局長)、小川有閑(浄土宗僧侶)、大岩みつ子(一般)、色摩真了(真言宗僧侶)、平井裕善(浄土真宗僧侶)、戸見嶋淳昭(浄土真宗僧侶)、Aさん(天台宗僧侶)、Cさん(葬祭関連企業勤務)+Okei

※この座談会では、〝墓じまい〟のことを、「イエ墓から納骨堂や永代供養墓など継がなくてもよい施設への改葬」と定義しています

墓の世話は若い世代の親族がする、墓石には入魂がなされている(浄土真宗など一部の宗派をのぞく)など、半世紀前は“あたりまえ”だった民俗のストーリーが崩壊していることを感じます。

本来は、お寺がそういうことを伝えなければいけないのでしょうが、人々の足がお寺から遠のいている現状で、いかにしてそれを伝えてゆけばよいのでしょうか。あるいは、時代の流れに任せた新たな方策があるのでしょうか。

葬儀・法要の〝こころの側面〟は削がれているのか

Okei 「お寺さんが供養についてもっと積極的に伝えていかないといけないんじゃないか、葬儀や供養という儀礼の意味が、あまりにも伝わっていないんじゃないのか?」というのが、今日の私からの発題です。
稲城・府中メモリアルパークを、石材店勤務のBさんと見に行ったときに、芝生墓地に線香立てがない、近くに祭壇もないということに驚いたのが、今回の座談会のきっかけです。お花立ては申し訳程度に1つついていますが、どうもそこで儀礼を行う前提になっていない。
芝生はたしかに燃えやすいので、線香立てを個々につけないにしても、同じ公営でも多磨霊園などでは近くに祭壇はあり、なんの宗教でも、いつお詣りしても、儀礼はできるようになっています。
昨年(2015年)12月オープンで、この写真の芝生墓地にははじめから墓石があり、「〇〇家」というプレートだけ石材店さんにお願いすれば、すぐに使い始めることができます。墓石つきで、125万円、年間管理費1万5,120円です。
※都立小平霊園の芝生墓地(小型2㎡)は、墓石がついていなくて使用料が180万円弱。年間管理費は1660円と稲城府中の10分の1。墓石つきで125万円は利用しやすいともいえるが、年間管理費は民営並みの価格である。

最新の都営霊園のメインの墓地には、線香立てがない!

Bさん(石材店勤務) 家を建てるのと同じ感覚ですね。小平霊園のほうが建てるときに費用はかかるが、規格サイズ内であればオリジナルの墓石にでき、平らでお詣りしやすい。稲城府中は安く契約できても、山の斜面の上で、お詣りのたびに苦労はある。

Okei なるほどそうですね。ただ私が一番驚いたのは、納骨についてAさんからうかがった話です。抽選に当たったかたが、Aさんのところへ「〇〇家」のプレートを注文しに見えるわけです。

Bさん そうですね、規格が決められていて、その範囲内で製作します。しかも、墓石は市のものなので、「はずすときに傷つけないように」と言われます。しかしお客さんとしては、「台風が来ても取れないようにつけてください」と(笑) そのジレンマの中で仕事をしています。

一同 (苦笑)

Okei プレートをつくる打ち合わせのときに、「じゃあ、〇月×日に親戚集めて納骨するからよろしく」と言われます。ところが…

Bさん お墓を建てるのって、そこがゴールじゃなく、そこからがご供養のスタートじゃないですか。そこがまずイメージできていない人が多いんですね。この墓石を開けるとカロートになっている(墓石が蓋を兼ねている)んですが、蓋を開けて骨壺を入れて閉めて、5分で納骨作業を終えられていく人もいます。バールを使う程度の知識があれば、一般のかたでもできることはできます。
しかし、お客さんのほとんどは具体的なイメージを持っていないので、最初の打ち合わせのときに「納骨はどんなふうにされますか?」と聞かないと、納骨式のようなことを全部こちらがやってくれると思い込んでいたりするんです。何も説明しないでおくと、ただ蓋を開けて入れて閉めるだけで、読経も何もできないとなると、喪服で集まった親戚一同でキョトンとしてしまうようなことになりかねません。お寺さんも、いきなり呼ばれて行ったら、きっと困ることになるはずです。

Okei うしろに映っている建物の中で、会場を予約すれば、セレモニー的なことはできることはできるんです。

Bさん そこでご葬儀もできます。金額的にも安価です。

Okei しかし、式次第も司会もなにもついてこないので、会場費は安価でも、全部自分たちでつくらないといけないんですよね。

Bさん そうですね、運営側は「必要なものは全部そろってます。好きに使ってください」というスタイルで、催しのメニューは何もありません。

Okei 結局、ちゃんとした納骨式を執り行いたかったら、葬祭業者さんに依頼して家族葬パックのような金額の式をしてもらうしかないですよね。

Bさん そういうことになりますね。葬儀社さんもこれから手探りでメニューをつくっていくんでしょうね。

Okei まだ昨年12月と今年の6月の2回の募集だけなので、これからなんでしょうね。しかし私には、市役所側が墓地を「儀礼を行う場所」と見ていない、たんなる遺骨置き場ととらえているように思えました。「みんな遺骨の置き場に困っているでしょう? ならつくってあげますよ」と。

Bさん たしかに小平などでも、芝生墓地は燃えやすく、お彼岸のたびに消防車が出たりはしています。だから芝生では線香はたかず、近くの祭壇でやってくださいということにはなっています。

Okei その「近くの祭壇」もないので、たとえばお墓参りに来ても、お花を手向けて終わりなのかと。個人的には愕然としましたし、利用者のかたも困惑されているんでしょうね。

Bさん まだできたばかりでキレイですし、申し込みする人は多いんです。多磨霊園にずっと申し込んでいた方がなかなか当たらなくて、こちらに申し込んだら1回で当たった。喜んでプレートを設置したんですが、現地を見にいったら「やっぱり多磨霊園のほうがよかったな」と。開苑したばかりのお祭りムードに乗っかってしまったかなという感想を持たれてようでした。

Okei 倍率も、初回の12月より、2回目の6月の募集ではだいぶ当たりやすくなったようですね。

Bさん 芝生墓地の遺骨所持のかたの募集数が484で、受け付けたのが73でした。改葬骨は61募集で70でトントンくらい。生前は62募集でしたが590。なので生前から遺骨所持のほうへ振り分けたりしたようです。

Okei 生前のお申込みが、意外にも多かったんですね。

Bさん そうですね。この数字がどう推移していくのか、これから市民のかたがこの霊園とどう向き合っていくのかというのは、5年くらい経過を見てみないとわからないですよね。

Okei しかし3000を売り切ることができるのかどうか、ですよね。

Bさん 稲城駅から徒歩だとおそらく30分くらいかかりますし、ものすごい斜面です。公共の交通機関はないのでタクシーで行くしかないんです。いまスーパーもでき学校もありますが、あの墓域が全部埋まったとしたら、お彼岸の日には大変なことになりますね。シャトルバスも何本か運行していますが、大渋滞で動かなくなるでしょう。納骨だけならともかく、日頃のお参りというのはかなりしづらい環境です。
先ほども申しましたが、お墓を建てることはあくまでスタートなので、高齢になってもお参りできるのかとか、次に継ぐ人が世話できるのかとか、まぁ以前なら当たり前のことだったんですけれども、そのあたりをイメージしないで契約されるかたが多いという実感はあります。

Okei 必要だから、とりあえず申し込んでしまおうと。

Bさん 久しぶりに開苑した公営の霊園ということで、勢いで申し込んでしまったケースも。しかしあの周辺に民間の霊園もたくさんあるわけで、「公営霊園より安い!」という見出しのついたチラシも出回っています(笑)

一同 (笑)

Bさん まわりの霊園には、待っていた人たちが流れ込んだという話も聞いています。

Okei 詳しい解説、ありがとうとざいました。私の問題提起は、「行政は供養をどう考えているんだろうか」。あまり考えに入れていないとすれば、お寺や葬儀社が伝えていかなければならないんじゃないかと。

行政は、墓埋法制定当時ほど「こころの側面」に配慮していない…

Okei 墓埋法(墓地、埋葬等に関する法律。昭和23年制定)には一応、「国民の宗教的感情に適合し、且つ公衆衛生その他公共の福祉の見地から、支障なく行われることを目的とする。」という文言が入っているんです。しかしその制定から70年たった今、稲城府中の現状をみると、「宗教的感情に適合し」という部分は完全に抜け落ちて、完全に遺骨の事務処理としてしか受けとめられていないんじゃないかと。
おそらく公営ですから、つくる前に市民にアンケートをとったと思うんです。そこで、「葬儀に宗教者を呼びますか」、「葬式はどんな形式で行いますか」と聞いたときに、無宗教とか自由葬という答えが多かったとすれば、線香立てや祭壇はもう時代に合わないだろうとの判断につながったのかもしれません。

Bさん 石材店が一商人でしかないという位置づけで、開発会議などにも参加できていないということもあります。建築専門の開発業者がつくればこうなるのかなと。
たとえばこの芝生も、墓石の下に生えている部分があるじゃないですか。ところが芝生って、育っていくと根そのものが持ち上がっていくので、場合によっては墓石が持ち上げられてしまって水が入ったりということになりかねません。少なくとも納骨室との間を10㎝くらい上げて造らないといけなかったように思います。

Okei にもかかわらず、「納骨じたいは石材店さんに任せてください」と。現場では困ったなという部分も多いわけですね。もうお一人の石材店さん、大橋さんはいかがですか?

大橋(石材店経営) エリアも違うので、私のところには稲城府中の依頼は来ていないです。開発に関しては、行政にもよりますが、だいたい公園墓地は建設課が担当し、お寺の墓地の場合は保健所なので、縦割りで考えかたがまるで違うんです。そういうわけで、通常の寺墓地での事例が反映されることはなく、かなり自由な設計にしてくださるなという感触はあります。

Okei 市民目線で考えると、寺院墓地より公営墓地のほうが広大なので、「その時代の墓地のスタンダード」というイメージにつながりやすいのかなと思うんです。それもあって、ここまで無宗教になってくるのは気になりました。
今日は、このメモリアルパークの話に限らず、たとえば改葬のときに、宗教者でもない行政書士の私が「御魂抜きはどうなさいますか?」と問わなければいけない場面が出てきていたり。「戒名がついているので、入魂されているはず。きちんと抜かずに撤去するのは、石材店さんも嫌がると思うので」と、したほうがよいですよ、というニュアンスでご説明することもあります。
「御魂って何?」、「墓石には魂が入っているの?」ということが、すでに70~80代の、幼いころはご実家に仏壇や神棚があったと思われる年代のかたにとっても、常識ではなくなっているんです。

ここで、ご出席予定だったけれど急きょ来られなくなった大阪の青木僧侶(真言宗)からいただいたコメントを紹介します。

うちは寺墓地なので御魂抜きの問題は(必ずするので)起こりませんが、ご自宅のお仏壇の場合は、(月参りなどに行くと)知らないうちに無くなってたりすることがありますね。だからといってそのおうちが失速する、なんてことはすぐにはおこらないので、まあそれもありかなと思うときもありますが、長い目で見たら、そういうことをした人の最期はちょっと淋しく終わってる事が多いですよね。やっぱりこちらの方はキチンとしないと「バチが当たる」と思われてる方がまだまだ多いです。見えないもの、自然に対しての畏怖。カシコイ人はそのへんが無いからやりにくいなぁとここ最近特に感じますね。
また、お寺でのお焚きあげはうちのお寺では年に2回していますが、なかなかできないお寺さんの方が多いのではないでしょうか。今は近隣からのクレームが多くて残念ながら断念、ってお話しをよく耳にします。

Okei 都市部でお焚き上げができないとすると、お仏壇はどうなっているんでしょうか。

お仏壇やお守り、お位牌は、社寺へ持参すれば、お祓いをしてもらえる!
(社寺との関係の深さにもよりますが、そんなに高額をお包みしなくてもいいようです)

増田(真言宗僧侶) ウチは住宅が近隣に住宅がないので、できます。もし近隣に住宅があったとすれば、拝んでから廃棄物として出すと思います。もしかすると塔婆の業者さんに頼んでいるかも。

渡邉(神職) 神社なので、明日も人形供養があります。住宅地なのでお焚き上げはできないんです。お祓いをしてから、さすがに粗大ごみには出せないので、クリーンセンター(市営・朝霞市)というところに持ち込んでいます。
10Kg220円です。お正月には60Kgくらいのお焚き上げが出ますが、さほど負担にはならないくらいの額です。

Okei お焚きあげやお祓いは、見せることも大事ですよね。

渡邉 お祓いをする場面では、可能な場合は立ち会って見ていただきますね。

清美(葬祭関連企業勤務) うちの会社では遺品整理の仕事もあり、2つの業者さんに頼んでいます。ひとつの業者は拝んでもらった証明書が出ます。提携しているお寺さんで月に一度やってもらっています。もう1つの業者は、拝みません。信心がないかたか、あらかじめ拝んでもらった場合に受けています。依頼した人に、どちらかを選んでもらうようにしています。
いまネットで調べたところ、自治体によっては粗大ごみで出せる場合もあるようです。ただ、仏壇屋さんに引き取ってもらうのがよいとも書かれています。

名取(真言宗僧侶) 仏壇を買うときは引き取ってもらえるだろうけど。

吉田(日蓮宗僧侶) うちも仏壇3つくらいお焚き上げしました。お仏壇というのはご家庭のさまざまな思いも詰まっているので、閉眼供養の読経もそうとう覚悟して行いました。仏具屋さんに頼まず分解したのは初めてだったんですが、それでも腰を痛めてしまいましたので、あれだけ気合いを入れても拝みかたが足りなかったなと。

名取 漆か何かで、燃やすと煙がすさまじいにおいがすることもあるよね。

Aさん(天台宗僧侶) 塗り物はすごい煙が出ますね。

名取 黒煙が出るんですよね。それ以来、懲りて燃やすことはやってません。最近は、たしか東京都の条例でたき火等は禁止になっているはず。

Aさん 以前は燃やしていたんですが、最近は焼却できなくなりました。

吉田 宗教行事として届け出ればOKになりますけどね。

藤尾(臨済宗僧侶) 東京は厳しいけど、東京以外はけっこうなんでも燃やしてますよ。

Bさん 仏壇のお焚き上げのお布施って、どのくらいが多いですか?

宗教者一同  お気持ち程度だよね…

藤尾 500円とか1000円とかのかたもあります。3000円~5000円が一番多いですけれども。

名取 賽銭箱の中へいれていきなよ、というくらいの額です。全国的にはもっとというお寺もあるだろうけれど、ここに集まってるようなお寺で何万も持ってこいというのは、ないよね。

Okei 宗派はいろいろなところのものが混ざってきます?

増田 うちの場合は、三が日は「ここに出してください」と置いておくので、神社のものとか、いろいろ入ってきます。
お仏壇に関しては、新しいものを購入したなら開眼と一緒なので、閉眼オンリーということは少ない。

Bさん キリスト教なのでという理由で、うちの石材店に持って来てお焚きあげしてほしい、というケースがありました。

藤尾 お焚き上げと御魂抜きは少し違うと思うんです。お焚き上げは、他宗派・他宗教のものや宗教に無関係のもの、たとえば故人の日記帳や手紙や遺品なども入っていたりして、お賽銭程度の人も多いと思います。仏壇だと、法事のときくらい奉納してくださるかたも多いし、お位牌やご本尊も同様です。反面、仏壇はただの箱だという考えの人もあるでしょう。

吉田 毎日大事に拝んできたものを粗末にできない、簡単には捨てられない、というかたは、きちんと包んでくださいますよね。
説明責任を果たしていくべきということについては、ゴミだと思って捨てていく人にたいして、もっと大切にしなさい、お祓いをしますよと言えば、「お金を取られた」となってしまうかもしれない。

仏壇やお札に対する思いの程度で、処分するときのお布施を考えるといい!

Bさん われわれが仲立ちとして説明するときに、「いくらでお願いできますか?」と言われて、やはり読経をしていただくのに、500円とか1000円とは言いづらい。

Okei そうですね、私の場合も改葬に伴ってお仏壇やお位牌のお焚き上げ、閉眼をお願いするというときに、「数万円じゃないですか」と話します。

吉田 ほんとうは、読経がいくらとか実費がいくらじゃなく、ご自身のその仏壇なりに対する思い、お気持ちがどのくらいなのかを表してほしいんだけれども。

Okei じつは私自身、菩提寺で毎朝読経してくださっている、ということがわかったのは、自分がお坊さんの本を書いた後、少しフランクにお話しできるようになってからだったんです。
それ以前は、法事のときくらいしか読経してもらっていないだろうと思い込んでいたので、お施餓鬼と棚経で毎年数万円出費するのは辛いなぁくらいに思っていたんですが、事情がわかってみると、365日読経してもらって数万円は少なすぎるんじゃないかと思うようになりました。
やはり、何をしてくださっているのかがわからないと、「取られた」となってしまう。だから、お祓いなどはなるべく見えるようにやっていただいたほうがいいんじゃないかと。
あとは、改葬などに伴って仲介の役割をするわれわれに、必要性などを説明していただくことも一案かなと。

清美 お坊さんがアピールしたらいやらしくなるし、引いてしまうと思う。(勤務する会社で主催している)供養コンシェルジュ協会で、まさに仲介の役割の人を育てることをやっています。お寺のことも一般の気持ちもわかっている人をもっと増やして、フェアでやっていくのがこれからのお寺の方向のひとつと思う。
ただ、こちらを利用したいと考えるお寺さんもゼロではない。お寺さんだけでがんばっても成功しているケースもありますが、いろんなアプローチがあると思います。

Okei 数十年前は、ふつうの人も供養の話やお迎えが来る、という話ができたと思うんです。いつごろから途切れたのか?

Aさん 舅(先代住職)の時代は、お寺からおつりをもらうものじゃない、もらうとゲンが悪いという感じだったけれど、いまは、だいぶ前からですが、おつりをもらうのが当然になりつつある。もちろん今も、多めに置いていってくださるかたとか、いろんな人がいらっしゃるので相手に合わせて対応していますが。

名取 ドリフターズで「カラスなぜ鳴くの、カラスの勝手でしょ」のあたりから、経済優先で、損得でわりきっていくという価値観に転がっていったような気がするんです。
目に見えないものは、支出しても損じゃないかと。
その裏にあるもっと大切なことを、団塊の世代の親たちが語れなかった。いまは、その孫の時代だよね。
うちは閻魔さまをつくった頃(15年前頃)に、いまの親たちって、小さい頃に「悪い事をしたら、閻魔様に舌を抜かれるぞ」と教わってないんだな、と実感しました。なんでかといえば、おそらく今の30代の親たちが60代の親からもし「閻魔様に舌を抜かれるよ」と言われたとしたら、「お母さん本気でそれ信じてんの?」と言っただろうと思う。今の子は逆に、閻魔様の話をしたら怖がるかも。
家電量販店でいいと言う人たちと、町の電気屋さんを選ぶ人が出てきた。問題にしなきゃいけないのは、家電量販店でいいと言うほう。

Okei そのたとえは、わかりやすいかも。
私の家は文具店だったので、そもそもは、なるべくなら家電量販店で買わない人間でした。商店街で買い物をしないと、ウチも買ってもらえなくなるので。
ところがあるときから、あまりにもアフターサービスとかが町の電気屋さんにはできなくなってきたんです。うちはエレベーターなしの4Fにあって、冷蔵庫を買ったら運んでくれたときに親父さんが前歯を折っちゃったりしたんです。この人たちに無理を強いちゃいけないな、という気持ちになったときに、家電量販店で買う派に変わってしまいました。だってヤマダ電機だと、1000円で5年保証とかついちゃうんですもん。どうあがいても、勝てない構造ですよ。
それをお寺の世界に置き換えたら、イオンやAmazonの僧侶派遣の流れはいままだ大したことがないかもしれないけれども、対抗するには宗門をあげて構造改革をしていかないといけないと思います。

増田 スーパーマーケットで大きな流れができたんですよね。さらに最近は、コンビニ中心に変わっている。昔、町の電気屋さんは、顧客台帳に家族構成まで書いてあって、節目のお祝いに何が売れるかわかっていました。牛乳配達でも、何人家族なんだと把握していたし。
お寺も、棚経をやっていると家族構成や問題もわかるけれど、やっていない場合や、訪れない家のことはわからない。

藤尾 棚経でまわっていると、ご家庭の変化もわかるし、いろいろな相談も受けたりします。そういう中でお焚き上げも預かったりすることがあります。
棚経をやっていれば、町の電気屋さんの台帳の例が続けられる感覚があります。

松本(浄土真宗僧侶) 青木さんの話の、月参りをしているのに仏壇が突然なくなっているというのもすごいね。

吉田 スーパーマーケット化しても、中間の人たちにがんばってもらったり、組合をつくるとか…

Okei Cさんはまさに中間業者ですが、エピソードありますか。

Cさん(葬祭関連企業勤務) 弊社は葬儀、仏壇、お墓なんでもやっていますが、僧侶の紹介をしてほしいという依頼もあります。
トラブルになる代表例が、菩提寺さんがあるのに、喪主のかたがそれを知らずに「何宗の僧侶を紹介してください」とおっしゃるケースです。私どもも「菩提寺さんはありませんか?」と確認はしますが、「あるけど、つきあいは全然ありませんから、そちらで呼んで構いません」と。
葬儀が終わったあと、納骨のときにトラブルが起こります。通夜も葬儀も呼ばれないで戒名もついてしまっているので。
いまは墓じまいを担当していますが、離檀料を払えと言われてトラブルになって、「Cさん、なんとかして!」と。お客さんは墓じまいしたい、撤去工事をしてくれと言いますが、ご住職は「何年もやってきて、こんなことは初めてだ」と。業者が間に入るのもおかしな話ですが、通訳のような役割をすることになります。

Okei 私のところにくる改葬も全部そういうケースです。トラブルになっていなければ石材店さんで改葬手続きは可能なので。

檀家に連絡しているつもりでも、世帯主が亡くなると……

増田 「菩提寺はありますか?」「ありません」、と返答してしまうケースで私が思い浮かぶのは、「菩提寺」の意味がわからない人。そうなってしまうお寺は、年に1度くらいお手紙を出してないんでしょうか。

Aさん いえいえ、お手紙はお父さん宛てで来るから、家族には共有されてない。

増田 あ、その人が亡くなっちゃうからわからなくなるわけ!?

Okei 一緒に住んでいなかったりもしますしね。

一同 それは、あるある!

Cさん 菩提寺さんがあると本人はわかっていても、亡くなったときは連絡しなければいけないということをまったくご存じなく、「同じ宗派であれば近くの和尚さんでOK」という感覚のかたもいらっしゃいます。通夜葬儀が終わって、納骨したいからちゃんと連絡しているのに、いきなり激怒された、と。

Okei 一泊して来ていただくのは申し訳ない、ということで気を遣って連絡をせず、葬儀社紹介のお坊さんを呼んだというケースもあります。

吉田 いわゆる昔の「筋を通す」ということが、当たり前でなくなっている。どうやって順序だててやるべきかを伝えてこなかったのは故人なんですよね…

Cさん いままですごくよくやれていたのに、「今回、墓じまいしようとしたら、人が変わったように怒られて、怖くて連絡できない」とおっしゃる。一般のかたは、それくらいショックを受けるわけです。月に数件は、お寺さんとの調整をしてくれという話があります。本来、私たちの仕事ではないですよね。

吉田 親の代と子の代がうまくつながっていないから、墓じまいについても簡単に引っ越していいという感覚なんでしょうね。お寺にとっても、誰が継ぐ予定なのかを把握しておくことが必要になっていますね。

松本 境内墓地をやめて合同の墓へ遷すというのは、八王子でも年々増えてはいます。

名取 いまのところ親が、あえて「迷惑かけたくない」と切っていくんだよね。

藤尾 子はまた自分で墓を探さないといけないわけですね。

Okei 何年か後には、散骨が法律でOKになっているかもしれません。

吉田 そうなったら、墓も寺も選ばれて淘汰されていくよね。

大橋 私は、子どもさんがいてお墓を買うとき、しまうときは、必ず(親子で)「話し合ってください」と言います。だいたい、遠くに住んでいるからなどで話していないんです。片付けちゃうほうは、あまりにも無頓着ということは感じます。

お墓の歴史を見つめ直す

藤尾 直葬をした人で、「やりなおし葬」をする人が右肩上がりに増えています。去年まで数年間で8件でしたが、今年も相談は増えていて、この2年間の合計では2桁になりました。直葬した人も、やっぱり戒名をつけるべきだった、葬儀すべきだったとか。長い人生の中で、自分や家族が病気をしたり事故にあったりすると気持ちが変わっていく。諸行無常だから、同じ人もこころは変わっていきます。
散骨する人は昔からいて、私もお手伝いしたことがありますが、直葬して全部散骨した場合はとくに、5年、10年、20年と後になって突然後悔する人は現実として少なくないです。
散骨されても、葬儀やその後のご供養をされている方や、一部だけでも手元に置くか本家のお墓に入れている方はいいですけれども、まったく何もせず遺骨がどこにも無くなってしまったしまった場合は、スピリチュアル・クライシスに陥ってしまう人は決して少なくありません。

Okei そうはいっても個人の墓の歴史ってそんなに長くはないですよね? 50年くらい前は村落墓地で次から次へ葬られていた。それでも、村自体がファミリーだったから、個人として墓碑がなくても寂しくはないわけですよね。
いまは、イエすら共同体でなくなってきているから、イエの墓に入ることにもリアリティがない。お舅さんと一緒にも住んでいないのに、なぜ夫の実家の墓に入るのか。
そう考えると、新しいコミュニティ、所属主体を構築しないと、墓のありようも見えてこない気がしているんです。
お寺さんが核となってコミュニティを再生するとか。

松本 それはたぶん正しいお話で、イエの墓というのがむしろ歴史的にみれば新しいものであって、もともとは個人の墓のほうが古いはずです。個人個人が葬られていたものが、イエ単位になったというのは明治以降。
コミュニティがすたれている中にあって、それを新たに創生するとき、お墓というのがひとつのツールになるとは思っています。

名取 私は新たに檀家になりたいという人には、「本尊さま(お不動さん)のそばで眠りたいっていう人たちが、ここの檀家になっているんです」と説明します。お不動さんが大家さんのところに皆で集まって住んでいるみたいな。
かつて村墓地だったところ(遺体処理場)に、ただの捨て場じゃないほうがいいからと、昔の人々がお堂をつくった。そのお堂への依存度がやがて大きくなって、旅のお坊さんを呼んで「あんたの生活の面倒みるから、ここにいて守ってくれ」となったものがお寺の多くの発祥のように思う。
だから、佛のそばにいる人たち、が共同体のメンバー。

Okei 江戸時代に檀家制度のために村に1つのお寺をつくる、となったときの経緯はどうなんでしょう? 村落墓地があって始まった順序はわかいりやすいですが、檀家制度の始まりはどうだったのかなと。

大橋 幕府による戸籍管理のためですよね。

Okei それまでお寺がなかった場合はどうやってできたのかなと。

藤尾 共同体、村に霊場はあって村で管理していたのでしょうけれど、儀礼はたとえば私たちの宗派なら建長寺とか大きな寺から呼んできてたかもしれませんね。
うちのお寺は横須賀と横浜の境くらいにありますので、欧米人が水子供養に来ることや、母国で闘病する身内の全快を祈るかたが来ることもあります。
仏教は契約の宗教じゃないので、どなたでもご供養はできる。キリスト教徒やユダヤ教徒の方で坐禅や写経や仏教の勉強にくる方はとても多くいらっしゃいます。

Aさん 檀家制度という整ったものがあったからこそ国として(攻められずに)成り立っていたこともあるのに、肯定する人が少なくなっているのは残念に思います。檀家制度があったからこそ、キリスト教の宣教師とともに欧米列強がやってきて攻め取られるということがなかったのに。
檀家制度があるから束縛されている、じゃなく、もっと過去を肯定して日本人としての誇りを持つ人がいてもいいはず。

「誕生祝い」から反時計回りに行事を刻み、左の「葬式」までで半周。
日本人の〝あの世観〟では、人生はまだ半分。
死んでからの半周で、生きている時と同じタイミングで儀礼を刻む。
回忌法要は、仏教伝来以前からあったこの世界観にもとづくもの

Okei そうですね、その当時は檀家制度のお蔭で国家の安泰が保たれたという側面はあると思います。
ただ、現在の檀家制度は、檀家総代などになっている人の多くが町長や学校長の経験者で、いわばピラミッド構造の頂点にいた、あるいはいることを誇りとする人たちです。ピラミッド構造をうまく泳ぎ渡って来た人たちの集会所となっているお寺に、ニートやひきこもりの若者はとても相談に行かれません。
お寺の信徒が世代交代せず高齢化する一方なのは、ほんとうにお釈迦さまの教えを必要としている現役世代が足を運びづらい構造になっていることが大きな原因じゃないかと思うんです。

「本国へ帰れないから弔って」と、他宗教の人も来る!

藤尾 うちの寺は外国の人も来ますが、ご供養と、宗となる教え(宗教)は分けて考えていらっしゃいます。キリスト教でもイスラーム教でも神様と契約をすれば救われると考えますが、仏教は契約の概念がないし契約すべき相手(神様)もいない。
なぜなら、自分自身がブッダになる道を実践する教えだからですよね。
われわれからすれば、マザーテレサもマララさんもブッダです。
たとえば、本国で身内が亡くなったけれども、帰れないからお寺で供養してくれという人が来ます。その場合は、仏教は区別はしても差別はしない宗教ですので、この地で供養すればあなたがたの契約した神様も認めてくださるでしょう、と説明しますし、そもそも彼ら自身がそう考えているからこそ寺に来られます。
心の部分と、宗となる教えの部分(人を殺してはいけないなど)は分けて考えるんですね。

清美 供養というのはどういう意味でとらえていますか?

藤尾 契約をしているから天国へ行けることはわかっているけれども、やはり祈りたい。亡くなった身内のために祈りたいという気持ち(心の部分)を引き受けることは、仏教寺院でもできます。神様に対してではなく、愛する故人に対して祈る気持ちだからです。

Okei キリスト教の幼稚園でも、七夕など一切やらない、というところもあれば、日本の行事は受け入れるというところもあります。

この考えをもってすると、藤尾さんのところへ来る外国のかたみたいになれるんじゃないかなと。

渡邉 これ、完全に神道の考えですよね!

Okei だと思います。みんな祖霊になって終わる。

渡邉 死んだらみんな守り神になると言いますからね。

名取 よく、ひいばあさんの生まれ変わりだとか言うよね。

松本 じつは、神道式の葬儀は年々増えているんです。

渡邉 たしかに急増してますね。なぜ神道式で?と尋ねると、10件中8件くらいは「実家が神道なので」。残りの一部は、仏教式から来た人です。神道式葬儀をどこかで体験して、「これはいいな」と転向してきた人たちです。

名取 結婚式は神道式が圧倒的に多いし、お相撲の人気もあるんだろうし。

Okei お浄土でも天国でもない「あの世」のほうが、宗教を敬遠する世代の人たちには受け入れやすいということが、神道式の増加につながっているのかもしれませんね。
藤尾さんのお話しにあったように、一神教の人さえ、お寺へみえることもある。何もできないよりは、弔ってほしい、と。供養は宗教を超えて可能になる余地があります。「宗教は嫌い」だからと散骨・直葬を選ぶのではなく、弔うことの意味、人として死と向きあう供養という機会と、信仰はまた別のことだということを、日本人もこれからは考えてゆけるようになるといいのかもしれませんね。

この記事を書いた人
『いいお坊さん ひどいお坊さん』(ベスト新書電子版, 2011)、『心が軽くなる仏教とのつきあいかた』(啓文社書房, 2017)ほかの著者、勝 桂子(すぐれ・けいこ)、ニックネームOkeiです。 当サイト“ひとなみ”は、Okeiが主宰する任意団体です。葬祭カウンセラーとして、仏教をはじめとする宗教の存在意義を追究し、生きづらさを緩和してゆくための座談会、勉強会を随時開催しています。
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