Zoom安居スタッフでもある鵜飼秀徳(浄土宗僧侶・ジャーナリスト)の最新刊がこちら。
仏教は、殺生を禁じる教えである。
しかし仏教各派は日清、日露から大東亜戦争まで、国家と一体となって戦争を推進した。多くの寺院の梵鐘が供出されて武器になり、自ら志願して従軍した僧侶もいた。
宗派が軍用機を献納し、軍艦製造のため多額の資金供与をおこなった事例もある。
前半1時間は、著者である鵜飼秀徳が本書の内容を抜粋し、多くの写真とともに解説した。
昨年来のロシアによるウクライナ侵攻、そして年末ごろからわが国でも防衛費の大幅増大が話題となり、令和5年度予算ではそれが確定しています。
そうした流れのなかで、戦争が間近に迫っているのではないかということを想定し、僧侶である私たちはいま、「もしも戦争になったとき、どうすべきなのか?」と考えておくべきであるということで、今回のテーマを選びました。
私は歴史専攻で、つねに歴史学の視点が考えています。
スペイン風邪は第一次大戦時でした。パンデミックを契機にして、戦争が起こっている流れなんです。
人間の本性、おろかさというのは歴史を経ても変わっていない。お釈迦さまの時代から、おそらく変わっていないのだと思います。
鵜飼さんが『仏教の大東亜戦争』を書かれたきっかけは、戦後75年が経過し、もう実体験として戦争を知っている人たちがどんどんいなくなっていく。いまこそ記録に残さなければ、という声からだったと聞いています。
前半の鵜飼さんのお話しで、皆さんどういった経緯で宗派や寺院が戦争に巻き込まれていったのかということは、ご理解いただけたと思います。
いまウクライナで、同じことが起きています。ロシア正教はプーチンの戦争を擁護する形で経過しています。
そして日本では、中国や北朝鮮を敵国と想定した防衛費の増大が行なわれていますが、われわれ宗教者はいま、戦争にならないようにするためにはどうすればよいのかを第一に考えながら、さらにはもし、実際に戦争になってしまったとしたら、どうすべきなのかを、考えてしかるべき時期にきていると感じます。(荻須真尚、浄土宗僧侶。Zoom安居スタッフ)
人間は、自分の見たいようにしか物事を見ることができない。都合のいい世界をつくる。その特性が、たとえば戦時下においては「不殺生戒」について、ねじ曲がった解釈がつくりあげられていったことにもつながっている。
物語を紡ぐ能力ゆえに人は進化し繁栄してきたのであろうが、それがマイナスにはたらくと、こういう悲惨なことが簡単に起きうるんだなと。ナショナリズムと宗教という物語が合致したときに、ほんとうにおそろしい、悲惨なことが起き、それを皆が当たり前のように感じてしまう。
そしてさらにいえば、お釈迦さまは、そのように自らが作った物語に左右されることから脱け出そう、誤解を恐れずにいうのならば物語の世界から解脱しよう、ということをめざされたのだろうと思います。そのことに今日、あらためて気づかされました。
真言宗 色摩真了僧侶
仏教界そのものが、社会状況に対して影響力を持ちうるのか? ということについては、少々悲観的にとらえております。
仏教者として、不殺生戒にどう取り組んでゆくのかについては真剣に考えなければと思います。殺してもいけないし、殺さしめてもいけないわけですから、政治的に活動していくということを考えるべきなのか、避けるべきなのか。私自身は個人として微力だと思っておりますので、こうした状況になにかできることがあるのか、あるならば助力してゆきたいですが、ヒントのようなものをお持ちのかたがいらっしゃれば、ぜひうかがいたいと思います。
笠原泰淳(浄土宗僧侶)
質問:国家や政策におもねらないことは難しいのか?
戦争状態前のいまの状況ですが、福祉がまだまだ国家の力だけでは足りていません。
「だったらお寺にやってもらおう」
と考えています。国家や制度には頼ってもなかなか実現しないので、それなら自分たちでお寺さんを頼ってやっていこうという動きがあります。
今日のお話しを聴いて、国家や政権とは別に動いていただけるのが宗教者のかたではないかという思いが強くなりました。国家や政権にあらがっていくのは、やはり難しいことなのでしょうか。
元首相銃撃事件のように宗教と政治がくっついてしまったらおそろしいことです。そのあたりについて、伝統的な宗派の皆さまは、どのように考えていらっしゃるのでしょうか。
一般社団法人「親なきあと」相談室:清元由美子さま
僧侶もお寺も、「何にも依らない」というのが、あるべき立ち位置と思います。権力にも、誰にも、依らないという。
ただ日本の場合、社会のなかにお寺も僧侶もどっぷり漬かっているので、難しい面もあります。
私個人は、お寺だけではなかなか食べてはゆかれないので、いまも兼業しておりますし、世俗として生きてきたほうが長いです。そのなかで、権力やお金に飲まれてしまっているのは正直なところでございます。
家族ができ、養うための経済力の問題、後継の問題(継いでくれるのかどうか)などに、とらわれてしまっていることはたしかです。
本来、上座部の僧侶のように世俗の問題とは切り離されているべきなのかもしれません。しかし日本においては、なかなか実現できません。
いまの仏教界に、なにものにもよらずに活動されているかたもいらっしゃいます。しかし組織としては、非常に権力に対して弱いという印象があります。政治団体とのつながりも、宗教法制の改革のときに無言でいるわけにいきませんから、有志としてロビー活動をする局面はあります。
ウクライナ戦争のときも、開始当初にどこの宗派も「戦争反対」という表明をしました。私からすると、それすらも非常に政治的に寄っている気がしてなりません。
だからといっておもねらずにいるのが当然というわけではありません。ただ現実として、日本仏教各宗派は政治と非常に近い立場にいることは否めません。
鵜飼秀徳(浄土宗僧侶・ジャーナリスト、Zoom安居スタッフ)
お寺はもともと人々を救済する場所です。本来は亡くなったかたのみならず、生きている人たちのためにあるべき場所です。たとえば、おてらおやつクラブをはじめ、貧困家庭の支援に動くお寺や、お寺を子どもの居場所にしようという運動、高齢者の支援のために動いているお寺などもあります。
全国に7万7千ヵ寺のお寺があり、そのうち正住職のいるお寺は5万といわれます。その10%、5千ヵ寺がこうした活動をしてゆくならば、大きな動きにつながり日本社会も変わってゆくのではないかと考えています。
宗教界と政治のつながりについて、公明党が創価学会を母体として政権与党ということは皆さんご存じとおもいます。創価学会は戦争反対を標ぼうしていますので、今後有事になったときにどう動くのかは注目したいところです(前の戦争のときと違い、政権与党のなかに戦争反対の派閥があることにより、歯止めになる可能性も)。
それ以外にも、各宗派のなかに政治家を応援する団体はあります。神道も仏教も。選挙になると、各宗教団体が組織票を集めるケースもあります。国民にはわかりにくいと思いますが、見えないところでのつながりは大なり小なりあると思います。統一教会と安倍元首相もそのうちの1件にすぎないと解釈しています。
WBCやサッカーのワールドカップでナショナリズムの一体感は感じます。それが戦争に向かうときに、よくない方向へ働く危惧ももちろんあります。それに歯止めをかける役割を、われわれ宗教者も担うべきと考え、今回このテーマをとりあげました。
荻須真尚(浄土宗僧侶、Zoom安居スタッフ)
宗教と政治がつながってしまうことを全面的にダメであると考えるか否か。
それが人を殺す道具になるとわかっていながら釣り鐘を供出することを拒否したとして、国土がなくなってしまえば、「今日から仏教は信じてはいけません。全員●●教徒です」ということになるかもしれない。
どこまで折り合い、どこからは抵抗するのかを、中道という観点から、具体的にいま、平常時に考えておかなければいけないと思います。
自分に「戦争協力しなさい」という手紙が届いたら、どうするのか。
正直に従うのか、供出するグラム数を極力少なく申告するのか。どこまで妥協し、どこからは譲れないのか。そういうことを、ご住職と副住職さんと寺族さんと皆さんでいま、考えておくべきではないかと。そしてもう1つ。血を流す戦争だけが、暴力なのですか? ということです。
戦後75年強、血を流す戦争が起きていない間に自殺者は増えているわけで。生きていても生き甲斐を積極的には感じられていない人というのが1割ぐらいいらっしゃるという状況。大企業に籍を置いていてお給料も足りているのに、会社へ足を運ぶ気力がないという人や、通えていても生きがいは感じられていない人がいらっしゃいます。その事実をなんとも思わないお坊さまが9割なのだとすれば、それ自体、戦争加担だと思えたりします。こころの中では血を流している人が何十万人もいらっしゃるのに、その状況をとめようとしていない。ならば、目に見える戦争がまた始まったときには、おそらく加担なさるだろうと。
勝 桂子(葬祭カウンセラー、行政書士。Zoom安居スタッフ)
戦争にも、いろんな形があると思います。自分が攻める場合。防衛する場合。
だから「戦争反対」といっても、無防備でいられるかというと違うから、自衛の手段を持ちましょうよと。
今回の防衛費増加は、自衛のためなのか。国防費を上げることは自衛につながるのか。逆に敵国を刺激するんじゃないのかとか。いろいろな見方がありますから、難しい問題だと思いました。また、自殺者の問題なども、宗教者がどのようにかかわってゆくべきなのか、日々考えていきたいところです。
荻須真尚
そうですね。いま、お金がない、食べるものもない、生きていく術がない、という人たちを、個人のボランティアが持ち出しで助けています。こうした人々のひとりひとりに寄り添っていく、ということを、7万7千あるお寺さまのうちの何割かでもやってくれたら、社会が変わる。社会がよい方向に変わるとしたら、大きな力によってではなく、一人ひとりの小さな力の積み重ねによるしかないと思っています。
清元由美子
感想②:資料を出していない宗派のほうが危険!?
浄土真宗僧侶として、ここまで戦争に加担していたことは知らず、驚きました。自分が浄土真宗僧侶だと公言するのが恥ずかしくなるような内容でした。
日本人がナショナリズムに走りやすいことは、先日のWBC優勝などでも感じました。
宮本龍太(浄土真宗僧侶)
戦後78年たっても、~イズムはあるように思い、気をつけてゆかなければならないと思います。
浄土真宗が先導したかのように見られますが、他の宗派は調査をしていないから、素材がないんです。
浄土真宗はむしろ、よくここまで調査をして自己反省の材料を提供されていると感じました。他の宗派のほうが問題だと思っています。
鵜飼秀徳
外郭団体をつくって戦時史を集め始めた宗派もありますが、遅いです。外郭団体ではなく、宗派自らが調査し、反省すべきことですし。
いま、私たち僧侶が自分の住んでいる地域のことをしっかりと見つめているだろうか? と感じました。
私は先日まで大正大学におりましたが、地方から東京に出てきた学生に地域のことを聞いても、震災や災害の記憶でさえ、うろ覚えであったりしました。
宗教者として、あるいは個人として、コミュニティのなかでどういった立ち位置でいるべきなのか。そこを意識的に考えていく必要があると。
WBCにしても、物資が豊富で、高級なグローブやバットが簡単に手に入る国と、そうではない国とが戦っているのに、たんに勝った、よかった、嬉しかったで一過性のものに終わっていいのかと。
戦争はあってはならないことではありますが、そうならないためには、自分たちの立ち位置で、コミュニティのために何ができるのか? を日々考え、実施していうこと。個々の事例から、だんだんに大きなマニュアルのようなものを展開してゆけるような仏教者が増えてゆくこと。そのようにして、皆で意見を出し合って、「どう寄り添うべきなのか?」ということを編み出し、ウェルビーイングな社会を実現してゆくべきと思いました。
落合崇志(浄土宗僧侶)
今日の発表にあった戦争協力というのは、(明治の廃仏毀釈があったあとの流れもあり)どの宗派も〝生き残りを賭けて〟行ったことと思います。
あるいは一般人として、ほかの人と較べ「乗り遅れてはいけない」という思い、宗教者としてというより俗人として社会に生き残ることに流された結果でもあると思います。
そのときが来たとき、ただ流されるのではなく主体性をもって行動できるよう、心に刻みながら日々を送ることを肝に銘じたいと思います。
東 好章(浄土宗僧侶。Zoom安居スタッフ)