2011年11月に、拙著『いいお坊さん ひどいお坊さん』出版記念で開催した「お坊さんと話そう!@渋谷Li-po」。その後半で、ひとなみ 同様に「生きづらさと向きあう」さまざまな活動をされている起業家のかたにプレゼンテーションしていただきました。中でも、オキタリュウイチさんによる「生きテク」のプレゼンは注目を浴びました。
その後、その日に知り合った松本智量さん、平井裕善さんにたいして、オキタさんから熱心なアピールがありました。
・オキタリュウイチ(「生きテク」サイト創設者)
・平井 裕善(浄土真宗)
・島田 絵加(浄土宗、自死自殺に向きあう僧侶の会)
・MC=Okei(勝桂子)
・アナログレコード演奏=辻ケンゾウ
オキタさんが立ち上げたサイト「生きテク」(生きるためのテクニック、の略)は、自ら命を落とそうとするレベルの悩みについて、「生きテク」の分類では、64通りの「問題解決のパターン」が存在します。その問題解決のカタログを、インターネットを通じて無料で知ってもらおうという試みです。
過去4年間で1 万7000人(開催当時)ほどの人が「さっきまで死ぬ方法を探していたが、生きてみることにする」と意思表明した「生きてみるボタン」を押しています。
生きテクでは、インターネットという特性上、40代の人までしか救えていないんです。
書籍化すればもっと上の世代に届くのではと書籍版生きテクもつくりましたが、残念ながら浸透しませんでした。
お寺を舞台に生きテクをひろめていただいたら、自殺のピークである50~70代の人のかたの“生きテク”が蓄積され、その世代のかたがたをも救えるようになるんじゃないかと思います。
オキタさんからの熱い申し出に、ひとなみ としても全面協力することにしました。各地でお坊さんとの勉強会などで生きテクのことをお話しするいっぽう、2012年1月には日蓮宗のお寺のアイディアコンペに応募し、優秀賞をいただきました。
地域社会とお寺の活性化アイデアコンペティション
結果発表‼
【アイデア部門】
<ひとなみ>周辺には、自死念慮されているかたや自死遺族のかたがたとの往復書簡を続ける「自死自殺に向き合う僧侶の会」所属のお坊さんが大勢いらっしゃいます。僧侶の会のお坊さんと、オキタさんとをつなぎたい!という思いから、このたびの企画となりました。
平井 自分のお寺は山梨県にありますが、あきるの本願寺というところでもお勤めさせていただいております。
お寺に来てくださいと言う前に、私どものほうから若い人に仏教に親しんでもらうために、銀座のギャラリーで「僧職男子に癒されナイト」という催しをしたり、お茶屋さんでお話ししたり、この場にも参加させていただいたりしております。
オキタリュウイチ 1999年に「キレる17歳」というのがメディアを賑わせた頃に、100個いいことをすると願いがかなう「ヘブンズパスポート」というのをつくり、15万人が使ってくれました。数人のキレる17歳と、いいことをする15万人の若い人ということで、いいことをする人が増えればキレる17歳問題は下火になるんじゃないかと。基本的な考え方は、“生きテク”も同じです。
自殺者が年間3万2千人(開催当時)いらっしゃるということで、なんとか解決できないかと考え始めました。
僕自身が200人くらいの自殺未遂をした人と会い、話を聞くにつれ、世間が思っている「自ら命を絶つかたのイメージ」というのが真逆だったということがわかったんです。「世間から逃げている弱虫」というイメージがありますが、まったく逆で、決断力が高く、行動力のある人が多かったです。だから、逆に「高確立で自殺に成功してしまう」という事実がある。
では解決方法はないのか?というと、ウィーンで地下鉄自殺の報道を規制したときに、地下鉄自殺の事例が激減したということがあります。
日本ではまだあまり取り組まれていないのですが、ともかく「死ぬためのテクニックよりも、生きるためのテクニックを普及させること」が一番早道なのではないかと。
10代から70代までいろんなかたと話しますが、「自殺の方法を5つ言ってください」というと、誰でもすらすら言えるんです。誰でも。
しかし、「いじめの解決方法を5つ」とお願いすると、1つも言えない。解決方法はゼロ、死に方はすぐ出てくる。これでは解決するはずがないなと。
方法がわかれば実行する人が増えるので、問題解決の方法をたくさん示せば減るんじゃないかと。
解決方法のカタログをつくろう! という発想でできたのが「生きテク」です。この図を見てください。
飲みきれないほどの水が地球上にあるのに、昔は不確定要素で「運が良かった」とか、「偶然水に出会えた人」が生きられました。日照りが続くと雨乞いのお祈りをしたりしました。でも今は、お祈りをしなくても蛇口をひねれば誰でも水が飲めて、たまたま水が飲めなかったから死ぬということがありません。それはダムがあるからです。
たまたま問題解決の方法に出会えなかった3万2千人が死んでいるという状況は、この状態にとても似ていると思いました。
問題解決の方法を1か所に集めて、誰でも知りたいときにシェアできるようにすれば、解決できるんじゃないかと思っています。また、現状亡くなっている3万人強の方々は、充分にその能力がある人たちです。
借金で死んだ人、いじめで自殺した人、など国が掲げている悩みの分類が8つあります。「生きテク」(=生きるためのテクニック)のほうも、「文芸系」「時間系」「働く系」など大きく8つに分類してみました。
膨大なエピソードを分類することで、個々の人が自分に近いエピソードと出会いやすくなるようにしています。
エピソードを読んで「生きてみるボタン」を押した人の数が、「本日の交通事故者数」のようにトップページに出ます(2008年サイト開設時~2012年4月現在で、「生きてみるボタン」を押した人=約17000人)。
認知度を増やすために、メディアの人に「どうやったら報道してくれますか?」と聞いたら、「バーンと絵になることをしてくれないと」と言われたので、死ぬ気がうせるTシャツを着た人たちで街を練り歩いたり、「天国のお父さんへ」という手紙を新橋の街頭で配ったりということもしてきました。
ここまでは、わりと順調にアクセス数を伸ばしてきました。
40歳少し過ぎた人がアクセス数で最も多く、男女比はほぼ半々。
次に、30歳1~2歳過ぎのところに小さいアクセスの山、15歳ちょっとすぎにも山があります。
この世代の人は「生きテク」というキーワード検索をしないので、書籍がいいんじゃないかと本も出しました。でも、その世代への認知度が上がっていません。
そこで、前回のこの催しで「お坊さんに会える!?」と聞いて駆けつけました(笑)
個人的にお坊さんが好きだというのもありますが、僕らが50~70代の人に呼び掛けるより、お坊さんが語りかけるほうが重みがある。お寺の数はコンビニエンスストアの数より多いと言われていますし、もともとは、そうした相談ステーションだったと思うんです。その機能を復活させたいと。
来てみたら、「自死自殺に向きあう僧侶の会」(自死念慮者や自死遺族のかたとの往復書簡を続ける僧侶の会)の松本智量さんと出会ったんです。
Okei そうですね。前回、11月にここで催しをしたときに、オキタさんは僧侶の会の松本智量さんと知り合いました。その後、「お寺で生きテクをひろめられませんか!」と熱いメールがありました。
じつは松本さんは、生きテクのことは以前から知っていて、書籍版の「生きテク」も持っていらしたんです。でも、自分たちの(書簡の)活動と結びつくとは思っていなかったと。平井さんも、「飲みながら話しましょう」と一升瓶かかえてオキタさんの事務所へいらしたんですよね(笑)
平井 たしかに本なら70代までサポートできると思うんですが、「生きテク」という言葉を70代の人にぶつけても即座に反応できるかというと難しいかもしれませんね。でも僕らだってお盆だけで100軒まわったりするわけですから、お寺にただ置いても反応してもらえないかもしれないけれど、そういうときに「お孫さん悩んでませんか?」と置いてくればいいわけですよね。
オキタ そうなんです。生きテクはひとつのダムなので、検索しない人に対して供給する蛇口(インフラ)となる人がほしいんです。このエピソードを読んでくれるのは40代50代のお坊さんだったとしても、お寺で「こういう解決方法を聞いたことがあるよ」と語ってくれれば、それで十分なんです。
Okei オキタさんと話していてすごいなと思ったのは、お寺に相談に行っても、気軽に相談できるお寺が現状は少ない(カウンセリングの経験もないので重たい相談には乗れないと敬遠するお坊さんも少なくない)けれど、「お坊さんが答える必要がない、コンシェルジュでいいんです、だから生きテクを使ってください!」と言い切っているところなんです。
つまり、お釈迦さまはお城で育ったにもかかわらず、道端でいろんな人と話してその人に応じた解決方法をパッとひらめいたかもしれないけれど、何年修行されたからといって、すべてのお坊さんにそれができるはずがない。できなくていいんです。だから「生きテク」のエピソードを一緒に読んで、「あなたと近い解決方法はこれじゃないか」と示せるコンシェルジュになればいいと。
平井 私は前回ここに座っていたときにたぶん「お坊さんは答えられません派」(人生相談は断るお坊さんが多いだろうという意見)だったと思うんです。悩み相談の看板を上げてくださいと言われたら断ると思います。しかしそこで、「コンシェルジュでいい」と言ってもらえたら、私自身も楽ですし、お寺へのアピールにもなると思います。生きテクのサイトを部屋にこもって一人で見るんじゃなく、お寺に来て、I padかなにかでお坊さんと一緒に読む、というのは解決方法になると思います。
Okei 松本智量さんがご法務で来られなくなりましたが、同じ「僧侶の会」から特別ゲストとして、島田絵加さんに登壇していただこうと思います。普段着なのでお坊さんに見えないかもしれませんが、浄土宗の尼僧さんです。
島田絵加 東京都文京区の光源寺というお寺で副住職をしております。自死念慮者や自死遺族との往復書簡を続ける「自殺対策に取り組む僧侶の会」の正会員であり、ほかにいくつかのNPOなどで電話相談員をしております。
生きテクとかライフリンクについてはもともと存じ上げておりました。どんな人がこういうことを始めたのかな、と興味を持っていました。単純に申し上げれば、誰もが必要としていることであるけれども、お金になりづらいこと。そういうことに取り組んでいるのはどんなかたなのかと。
オキタ ありがとうございます。
Okei 「コンシェルジュでいい」という意見については、どう思われますか?
島田 はい。お坊さんというのはそもそも、喋りすぎるんです(笑)。困ったことなどを言われると「どうにかしなければ」と必死になって、仏教の知識などをまくしたててしまう。でも、借金や恋愛で苦しんでいる人に2500年前のお釈迦さまの話をしてもどうも響かなくて、相談するほうもされるほうも徒労感で終わってしまうということが起こりがちです。
それというのは、困っている人と、相談に乗っている僧侶の向いている方向がきっと違うんだと思います。
コンシェルジュであれば、同じ方向を向いているので、とてもいいことだと思います。
オキタ コンシェルジュをどういう意味で使ったかというと、僕自身は悩んでる前、うつになる前って原因があると思っているんです。歩いていたら急にうつになるわけではなくて。誰にも言えてないけど、みんなが自分を嫌っている気がするとか、借金を返せてないとか。そのことで相談に乗れる人と乗れない人がいるんですが、同じ境遇の人だと相談に乗りやすい。
だから、カウンセラーの人が自力ですべてのカウンセリングに乗るのは無理だと思うんです。借金で悩んでる人についてまで、体験がないのに、私がなんとかしようと思っても無理があると。
しかし、先輩を紹介することならばできる。
昔は、お寺という場所には捨てられた子たちがどんどん集まってきて、その中で志の高い人が和尚さんになったりしたのだと思います。だから、お坊さん自身が当事者であったと思うんです。
当事者どうしであることがポイント。先生 v.s. 問題を抱えている人、という構造になっちゃうと苦しいかなと思います。
Okei それが最初に絵加さんがおっしゃった、「お坊さんてしゃべりすぎちゃうんですよ」ともつながっていると思います。体験がないのに喋りすぎても響かない。
じつは、自殺対策に取り組んでいらっしゃるお坊さんは、全国にたくさんいらっしゃるんです。
岐阜と大阪で、インターネット(Mixi)を使って相談に乗られてきたお坊さんお二人に、生きテクのサイトを事前に見てもらい、コメントをいただいています。じかに相談を受けることもされていますが、ネットを使っての相談もされているということで、オキタさんの生きテクと少し近いかなと思いますので、発表したいと思います。
根本紹徹さん(臨済宗、MIXI「消えない人」管理人):「生きテク」は、エピソードに徹しているのがいい。
文体がきれいすぎる(編集されている)点が、気にはなっています。意図的なのかどうなのか。
今城良瑞さん(真言宗、MIXI「言えない心の傷」元管理人)のコメント:自分はドロドロの言葉そのまんまでやりとりしているが、生きテクのように編集されたエピソードも必要だとは思う。「これで解決」で分析している部分が、自分のサイトとはつくりが違っていいなと思った。
今城さんからオキタさんへの質問:ドロドロの状態の人が、生きテクのような整然とした文章を読んで受け取れる状態になるまでには、どうすればいいのでしょうか?
オキタ 生きテクの場合、ちょっと時間がたってから話を聞いているので、落ち着いちゃっているんです。どろどろの死にたい瞬間じゃなくて、過去に死にたかったけど、今はもう解決している、という人へのインタビューをしているので、いったん気持ちの線引きはできて、整理はできちゃっているんです。意外と普通のわれわれよりもずっと楽しそうに生きていたり。その経験を活かして、何らかの活動をおこしていたり。で、過去の状況をなるべく細かく聞くと悲惨なんですが、語っているいまは、本人の中でもある程度過去の事とされていてすっきりしてる。それをライターさんが聞き書きしています。
喋る段階では支離滅裂になっている人もいると思いますが、聞き書きする段階で整理されてると思う。
じつは、僕がライバル視しているのは、Wikipediaの「自殺の方法」を書いているページなんです。あれは非常に淡々と、無感情にテクニックとして書かれていて、死にたいと思う人にとってはとても便利なんです。
技術論に徹している。
だから、僕自身もなるべくぐしゃぐしゃ感情や、その後の教条的な思想をまじえて言うのを控えたんです。
自殺防止に取り組んでいる人は、思想やメッセージを伝えたいんでしょうけれど、思想を言われると、いまグシャグシャになってる人は、「それはあなただから出来るんでしょ、そう思えるんでしょ」となる。だから、思想はいれずに、テクニックとして、こうしたら解決して脱却できた、というのを淡々と語るようにしました。
東尋坊で、飛び込むのを止めてるおじさんがいます。だいたい見ていると、行ったり来たりして迷っていると。
死ぬってことは決めているけど、選択肢が1個しかないから迷ってる。
ほかにも選択肢がある、というフラグを立てることが重要だと。同じような悩みで解決したけどもっとひどい悩みだった人を提示すると、コロッと解決しちゃうこともある。自分の中で悩みを増幅してるケースっていうのもずいぶんとあるように思うんです。
同じことで悩んでいるエピソードがあると、「ほかにも悩んでる人がいたんだとビックリしました」と。そういう書き込みも生きテクには多いんです。
3000万円借金があって死のうと思ってた人が、40億円の借金ありますが何か?という人と出会うと、なんだ、死ぬ必要なかったのかと。パラダイムシフトでしかない。借金が原因ではあるけれど、借金で死んでるんじゃないんですよ。300~500万の借金で死ぬ人が一番多いそうなんですけど、そこを超えて億単位になるとケロッと生きてる。億超えると楽ですよ、なんて言ったりして。自分だけが苦しいと思っていたり、返せそうで返せないからと自分を責めて苦しんでいる。こんな金額も返せない、と自己不信に陥っていたり。でも億になると、自力じゃどうにもならない、って思って逆にポジティブになったり、オセロゲームのように逆転する方法を考えたりするようになっていくケースがあり、意外と死んでいない。
Okei 島田さん、往復書簡をされているなかで、いまのお話について思うところありますか?
島田 悩んでいるかたというのは、すごく深く悩んでいらっしゃって、自分ではどうしようもないレベルまで悩んでいらっしゃいますから、簡単にわかられてたまるかと思われている節があると感じます。いくら私なんかが相談に乗っても、本当にはわかってたまるかと思われているんじゃないかなと思うことがあります。ですから、ナナメ上の人を紹介するというのは説得力があると思います。そのリソースが私たちにはないので、生きテクを利用するというのは手段としてあると思います。
平田 良瑞さんの質問でナルホドと思ったのは、サイトにビジターとして訪れてくれる人は、そのサイトを見よう、学ぼうという時点で能動的なんですよね。その前に、生きようとも思ってない人。ただただダメなんだと思ってる人がいる。その前の段階の人は、お寺に来ることがあるんですね。ですから、サイトに訪れる能動的な力が起きる前の段階に何があるのか、というのはとても深いことを書いてらっしゃると思いました。
生きテクのサイト自体に、能動的になれるしかけを組み込むということは考えていらっしゃいますか?
オキタ いまサイトに来ている人は、「自殺 方法」などで検索して来ているんです。そもそも「自殺」という検索キーワード自体はいますごく伸びてるんです。僕が始めたころは14万件くらいでしたが、いまは84万件、2008年からで7倍になってる。僕からすると、自殺という検索をする時点ですごく能動的なんです。
自殺する前に彼と居酒屋で一緒に飲んだのに、なんで気づいてやれなかったんだろう?と悩む人がいますが、彼らは、死ぬ前に仲良かった友人たちに会って行く、というのもスケジュール化されてタスクの中に入っているんです。バレないようにしてるんです。
僕が聞いた中で一番ひどいかったケースは、中学時代の同級生をカラオケに集めてオールして、本人は気がすんだので夜中の3時ごろ飛び降りてしまった。集められたほうはたまらないですよね。本人の考え方は、いかに効率よくみんなと会って、やり残したことを終えていくか。だから、僕の会ってきた人は非常にロジカルなんです。
生きていると苦しみの回数は多い。死ねば痛いのは1回だけ。だからそっちのほうがトクであるから、死ぬほうを選ぶ、と。
ある意味、強いなと思います。その人たちに「生きていたらそのうちいいことあるよきっと」なんて言っても全く響かない。あなたと同じタイプの人は、4年以内に70%の人がこういう方法で解決してるよ、と言えば、「だったらもうちょっと生きてみようか」となる可能性はあるわけです。
いっぽう、ただ話を聞いてほしいタイプの人は、死なないです。話を聞いてほしいだけだから。その人が大半ではあります。放置してても(悲しいだけで)死なないですが、本当に準備して練習して確実に自殺に成功する人のほうが非常に能動的でアクティブだと思います。
うつ状態からそう状態になったときに、ネガティブ思考のままだと危ないのではと思っています。
生きているほうが苦しみの回数が多い、自殺するのは苦しみが1回である、といったコンセプトをチェンジさせないとダメなんです。
もちろん、グレーゾーンで悩んで、行ったり来たりしている間にハズミでたまたま成功してしまった人もいると思うんですが。
友人ではげまし屋さんという人がいるんです。体中の毛という毛が、高校のときになくなっちゃって。眉毛も何もないんです。もともとかなりイケメンだったのに、毛がないからいじめられちゃう。本人も外へ出られないと思ってましたが、『文芸系』で“カーネギーの本を読んで立ち直り、その後病気であることを活かして役者になる”という道を選んで立ち直りました。Vシネとかで毛のないことを個性としてゲイバーのオカマ役や、ヤクザの舎弟役として出演しているようです。。
その彼が、サッカー部のキャプテンでモテモテだった友人がひきこもりになってると聞き、励ましに行ったそうです。5年くらい部屋から出てきていない。ドアをあけたら、もとイケメンのサッカー部の彼が出てくるけれど、はげまし屋さんはつるつるなので誰だかわからないんです。名乗って、「お前なんでひきこもってるんだ?」といったら、5年前に自転車で転倒して顔にあざができて、皆が自分を笑ってる気がしてひきこもっているんだと。
「お前なにアザくらいでひきこもってるんだ?」と女の子が沢山いる飲み屋に連れて行ったら、超イケメン!と皆がちやほやしてくれたと。
本人にとっては立ち直れないようなことだと思ってしまっていることでも、その思い込み、コンセプトを外すとなんでもなくなる。
たとえば海外で、アフガニスタンとかに行くと泥水をかき混ぜて石をゴロゴロ入れて、おさ湯つくって飲んでるんです。なんで石ころなんて入れるの?と聞くと、具が入ってる気がするからと。いつか日本みたいな豊かな国に行きたいと言ってる。
その人たちに、「でも日本て年間3万人くらい死んでるよ」と言うと、まず信じない。「年間3人くらいいるのか?」と聞くから、「3万人だ」と言うと、ぽか~んとしちゃう。
彼らが、物理的に満たされているわけはないですよね。親も殺されてたり、食べ物もなかったり。でも死んでない。だから日本は、いくらデフレで借金苦で死ぬ人が多いとデータが出てても、ほんとうは物理的な理由で死んでるとは僕にはとても思えないです。
イランの国営放送から取材を受けたことがあるんです。なんで日本人は死ぬんですか?と聞かれたので、なんでイラン人は死なないの?と逆に聞いたら、そういうアイデアが出てこないと。たとえば借金を背負って追われていたら、生き延びる方法を100個ぐらいパパッと言えると。どうごまかすか、知らんぷりするとか、解決策が山のようにでてくるんですって。だから、死のうとはまず思わない。なんで死のうと思っちゃうの?と言われました。
カミカゼ特攻隊とか腹切りでも、つらいから死ぬわけじゃないですよね。藩のため、国を守るためとか、家族のためとか。だから理由が全然違うと僕は思います。。
Okei 恥の文化が邪魔しているのかもしれませんね。逃げたりとかずるっこしたりというイラン人の方法が紹介されたとしても、日本人なら「ズルをするくらいなら死ぬ」となる人も多いかもしれない。だとすると、その考えかたをチェンジさせる必要があるかもしれないですね。
たとえば、借金は相手に迷惑をかけているかもしれないけれど、もっと大きな、たとえば日本経済とか世界経済レベルで見たら、あなたが借金をしょわされたのはあなただけの責任じゃなくて、たまたまビジネスモデルが短期で変わってしまったせいだとか、それは予測不能だったとか。あなたが返せなかった借金は、たいした迷惑ではない、ということになるかもしれない。
お寺で何ができるかということに立ち返ると、お寺のタイムスパンは長い、ということを私は書きました。
本当は、ここにきていないお坊さんに生きテクを活用してほしいんですよね。
すでに僧侶の会に参加されていたり、ここにきてくださっている僧侶のかたは、相談の手法ももっていらっしゃるし、生きテクがなくても相談に乗れている。
(浄土宗では「お寺は悩みの相談室」という看板札を門末寺院すべてに配ったけれども返されてきた)
島田 私は、その札を返した人こそ責任感の強い人じゃないかとも思ってもいるんです。オキタさんのお話は同意したいことばっかりなんですが、ひとつだけ同意できないのは、経験したことじゃないと対応できないと思い込んでいる人が世の中に多いんじゃないか、ということを私は残念に思っているんです。
インドのブタガヤというところに行ったんです。たぶんお金はない家ですが好青年がいて、そのかたのことを私は3年前から知っていて、「自殺対策の活動をまだやっているの?」「やっているよ」「まだなくならないんだね」と。だいたい、なんで死ぬんだ?意味がわからない。お金がないでもなく、食べるものがないでもなく、と。こうこうこういうわけで、いじめられたりするんだよ、と説明するんですが、なかなかわかってもらえない。「でも、最後はみんなロンリーなの」と説明したら、「あ、それならわかる」と言ってもらえたんです。
そのことっていうのは、私たちみんなができるはずなのに、お金の話は私にはできない、いじめられたことがないからわからない、と。どんなに心を寄り添わせなければならないか、ということについて日本人は感じられていなさすぎる。
浄土宗の札をつっかえした人についていえば、本当に心を寄り添わせなきゃならないと思えば、つっかえすことはできなかったと思うんです。そこで生きテクがいいなと思えば、一緒に生きテクを見ればいいのなら、一緒にしょわなくてもいいし、こんなにいいものはないですよね。
オキタ お寺に3日くらいいていいとか、そいういうのはないですか?
島田 よくそういうことは言われるんですが、ウチでいえば、65歳の母と、64歳の父と、29歳の私と猫と、家族3人でお寺をやっているんです。ここにたとえば18歳の女の子が来たとすると何を食べさせたらいいのか、ここからどうやって学校へ通わせたらいいのか、と具体的に考え始めると躊躇が起こるんです。
Okei じつは会場内に「自死自殺に向きあう僧侶の会」メンバーのお坊さんがいらしています。Fさん、コメントをお願いできますでしょうか?
Fさん ちょっと二三日預かってほしい、ちょっと修行してみたいという人は近年確かに増えています。ただ、なんでそうしたいのか?をよく聞いてみると、泊まることや修行したいというのが究極目的じゃないんです。さっきの「借金で死んでいるのではない」、というのと同じで、死にたい気持ちと直結してるのは、返せなくて「家族に迷惑をかける」などほかの要素がかなり大きいんですね。いわば「助けて」というシグナルを発しているともいえます。
私のところへ相談に来るかたは中高年の男性が多く、いわば社会的な地位もある世代でもあるため、家族にも社員にも誰にも悟られたくないという思いが強いし、確かに隠すのがうまいと思います。言い換えれば自分一人で抱え込んでしまっている状態にあります。とくに男性で40代~60代は、さきほどの東尋坊の例でも迷いなくすぱっといってしまうので引き止めるのが難しいと聞いています。
まずは、じっくり耳を傾け、深くお話を聞いていると、そのかたの中でも少しずつ整理されていって、バッテリー(生きるエネルギー)が徐々に充電される状態になっていきます。それが続いていくと、借金なら司法書士のところへ行ってみよう、市役所に生活保護を申請してみよう等という状態になって、問題解決に向けて動き出そうという活力も沸いてきます。まずは「気持ちに寄り添う」「心を受けとめる」ところからはじまっていきます。
現実問題として、お寺に泊まったら、ほんとうは一日も持たないと思います。もし、禅寺なんかに泊まったら、朝は3時に起こされて読経、坐禅、掃除などが続いた後、やっとありつける食事はお粥だけとかほんのちょっぴりだし。お寺でのんびり静養なんて思ったらとんでもないです。
実際に泊まってお寺の生活をするとなると、心が弱っている人にはまず無理です。健康な人でも厳しくて逃げ出す人もいるくらいです。おそらく、昔の湯治というか、療養とか休息のため温泉に行くイメージでお寺の生活を捉えていらっしゃるのかもしれませんね。
しっかり相手に向き合って、お話しを聴くことによって、その人は「本当は何がしたいのか」ということがみえてきます。発せられた言葉の「真の意味・裏の意味」をきちんと捉え、そちらの方に寄り添うことが大切です。
(休憩~辻ケンゾウ紹介 外国人からするとなぜ死ぬの? に関連して、昭和の時代は、貧しかったが貧困じゃなかった⇒その時代を思い出すアナログレコードをかけて全国行脚している人です)
Okei Fさんのおっしゃっていることと、生きテクを利用することの間に、なにかしら結び目があるんじゃないかという気がしています。そのあたりに後半でたどり着ければと思います。
札を返しちゃった責任感の強い人たちが、生きテクを知ったら札を返さなくて済むかもしれないというのが一つですね。
平井さんのご友人で浄土真宗のお坊さんがいらしているそうです。Nさん、ここまでのところを聞いていただいていかがでしょうか?
Nさん 千葉県の浄土真宗本願寺派の僧侶です。たまたま先日、仏教ホスピスの会でOkeiさんの講義を拝聴したあとに飲み会で平井先生からこの会のことをうかがって参りました。
4月からお寺で悩み相談みたいなことを月1~2回開催しようかなと思っていたので、とても参考になります。先日もいじめられているという子が突然来て、「お釈迦さまだったらどう答えてくれるんですか?」と。ただ、私が答えられるのは人生はくなり、思い通りにならない、という大まかな話になってしまうんですね。ここで経験談という具体的な話をできる可能性に加え、お寺というのは苦しい・悲しいという気持ちを吐露できる空間なんだという考えが加わって、可能性が広がると思いました。
オキタ お寺には、月にどれくらいの相談があるものなんですか?
平井 一般的なお寺にどれくらい相談があるかといえば、ほぼゼロ件~数件だと思います。本山系の大きなところには、ときどき相談がきますが。山梨のお寺にはほとんどかかってきません。あるとしても、仏事相談。生きるのに疲れた、という相談はほぼゼロです。
オキタ そうなんだ…
Okei しかしFさんのお寺にはしょっちゅうあるようですし、Nさんのお寺にもご相談はあるんですね。
Fさん 死にたいという分野とは関係ない相談、たとえば借金に追われてやくざが来てて怖いので一緒に来てくださいというような相談や、同じ人(リピーター)が通って来るのも含めたら、月に10件~20件くらいですね。
Okei むちゃくちゃ多いですね。全国の7万7千のお寺のたとえ1割でも、月に20件受けられたらすごいことですね。
ちなみに仏教テレフォンセンターでは、年間4000件くらいの相談があり、人生相談が1位で1500件。仏事相談が1位ではなく、人生相談が1位なんです。
「仏教」「人生相談」で検索してくるんですね。お寺が嫌われているだけで、みなさん仏教は人生相談に答えてくれると思っているんです。
電話であればお坊さんに人生相談できるけれども、お寺に人生相談に行くとなると、限られたお寺のみ。ここの矛盾点を超えることがポイントかもしれません。
オキタ お寺って、今はたしかに入りにくいですよね。
平井 僕がお勤めしている本山系の大きいところは職員が50人もいるので、いつでもオープン、どうぞどうぞとできます。京都あたりの大きなお寺でも可能でしょう。でも、家族経営のようなお寺では、実際門を閉めてしまうところが多いです。賽銭箱が取られたとか、仏具が取られたということがあるなかで、少しずつ閉めて行ってしまうんですね。
一般の人は大きいところも小さいところも同じに開いていて当然と思うのでしょうが、山梨の寺で開いておくということができるかといえば、僕はずっと山梨から動けなくなるので無理ですと。
会場から 「相談できるお寺リスト」みたいなのがあればいいですね。
オキタ あと、このような問題解決には強いお寺、というのがあると思うんです。いちおうお坊さんではあるんですけど、新宿駆け込み寺ってあるじゃないですか。あそこの玄さんは、風俗関係とか暴力関係のトラブルならいくらでもわかるけれど、うつとかになると全然わからないと。わからないから帰れと言っていたそうです。基本的にはビジネスモデルもなくてお布施だけでやってるんですけど、Exileの人がごっそり寄附していったりもして回って行ってる。
Okei 玄さんの情報がいまここで話題になったように、いろいろな情報がいきわたって、紹介し合えたらいいですよね。オキタさんもそれを主張してましたね。
平井 そうですね。これからなら、私のお寺にもしもDV被害に遭ってる人が相談にきたら玄さんを紹介できますし、うつの重篤な人がきたらオキタさんを紹介できる。僕らが悩みの解決者にならなくても、こういった場で学んで交流して、紹介しあえたらいいですね。
その後、会場からは次のような声が出ました。
Oさん 老いること、病むこと、死ぬこと、は誰にでも訪れるんだから、これぞお坊さんの出番ですよ。
Tさん(僧侶、ファイナンシャル・プランナー) 埼玉県で檀家200件ほどの小さな寺の住職をしています。OkeiさんとFP(ファイナンシャル・プランナー)でご一緒しているご縁で参りました。寺の収入だけでは苦しいので、月木はサラリーマン、火水金は寺にいて会社の仕事をしています。
どんどん疑問がわいては、少し聞いているとその疑問が氷解してという繰り返しで、心地よい時間を過ごすことができました。
生きテクとお坊さんはどっちが頼ってどっちが頼られるのか?という疑問を持ちながら聞いていましたが、それは両方あってもいいと。
ずっとお寺にいられるわけじゃない私のような者はどうすれば?という疑問についても、月に一度でも門戸を開けばいいのだと。
さらに、こんな中途半端な思いで何かしたいといってもどうすれば?という疑問があったんですが、こう悩みながらもできることのきっかけを少しずつつかんで揺れていくことが中道精神ではないかと、いまは非常に気持ちいい状態になっています。
また、60代のTさんからは、50のときに鬱になったけれども、自分なりの儀式を心の中に持つことで、なんとか乗り切ってこられたという、オキタさんが求めていた「中高年の生きテク」が具体的に披露されました。そのTさんからの質問。
Tさん 自死する相談をしてくるみなさんは、生まれてくることについての意味づけみたいなものはあったんでしょうか?
たとえば、消えたいと思うことは私もたくさんありましたが、生まれてきた意味というのをみなさんはどう考えているんだろうかと。
姪っ子が生まれたんですが、その子を抱っこしたときに、あ、命がここにあるんだ、というのをまざまざと感じて、それをきっかけに生きるかもしれない、と思ったんです。仕事柄新生児を抱くことはあったのに、自分と血のつながった赤ん坊を抱いたときに、すごく実感した。その子は見てるだけで、もう生きようとしてる力がグングン感じられるわけです。
人が死ぬところを見たかったから人を殺してみた、みたいな本が出ているそうですが、昔なら焼き場が近くにあって、死ねばこんなにおいがするとか、死がもっと身近にあったわけですよね。いまはペットですら、死骸はすぐに片付けて親御さんがかくしてしまい、見ることがない。
たぶん死を見ることがもっとあれば、生きてきた理由も見つけられるのではないかと思うんです。
そういう理由で生きてきたなら、まだ生きてみようとか。それだけの理由なら死んじゃおうとか、どっちもあると思いますが、生きている理由、生まれてきた意味がもう少し見えたら、死にたいと思うことが減るのではないかと。
若い人に、生まれてきたことがよいことだったんだ、ということをもっと伝えていければ、問題は解決するんじゃないかと。否定語ばかりがあふれているので。
平井 生きることの意味は、よく若い子に聞かれます。私も30代なので大したことは言えませんが、何千何億のいのちのつながったその末端にいるんだから、あなたの命はあなただけのものではない。だから勝手をしてはいけませんと。
オキタ いろいろあっていいと思うんですね。自分の子供が死にたいということになったときに、手伝ってよ、といわれても納得がいかないし誰だってイヤだと思うんですね。そうなったときに死に方のカタログはあっても、ほかの視点というのが、あまりにも網羅されていないと思っているんです。生まれた意味のカタログというのはあってもいいという気がして。
奥多摩に行ったんですが、風がふいてひぐらしが鳴いてました。あるおじいさんが、もうちょっとするとニイニイゼミがないて、そのあとミンミンゼミがないて、ツクツクボウシが鳴いて、ツクツクボウシの声を聴くともう秋だと。風が吹いてて、虫がないてて、僕がいる。それだけなんですけど、奥多摩に行くと実感できるんです。
奥多摩のあの世界観に行くと、“意味はない”んです。生きることにも意味はない。ただ、あるだけなんです。
現代社会にいて、生きてる意味はなんだ?と問われることは、ペナルティがあるんですよ。君、何で生きてるの? なぜこの会社にいるのか? なぜこの学校なのか? 常に意味づけをして答えがないと生きられない。
でも、そうじゃない実感もあると思うんです。“無尽”や“講”のようなシェアシステムを発明したのはそういった仏教的発想からではないかなと。
普通は冷蔵庫は私のもの、だと思うんですが、所有を超えた「みんなの冷蔵庫」であるようなゆるいカオスな世界観でもいいと思うんです。
そもそも、お寺自体が時空をこえた時間感覚じゃないですか。56億7千万年とか。その日その日に、4時間かかる資料を1時間で作れ、四半期の業績でお前の価値はすべて決まる、みたいな競争に追われているとわからない、大きなパラダイムシフトができる時間感覚が必要なんじゃないかと。
Okei そうですね。私は、「一人称の救いは宗教ではない」、つまりいまオキタさんが言った意味のパラダイムシフトができないと、宗教的価値はない、と最近よく言って回っているんです。「先祖代々のご供養」というのはまさに、一人称の救い(その家だけが安泰であればいい)ですから、そういうところから脱却していただくことが、まず重要かなと。
島田 それに関連して、私が最近みなさんに伝えていることがあるので言わせてください。お寺というのは、本堂でどれだけ泣いていても、誰もヘンに思わない場所なんです、ということです。がんばっている人が多くて、誰にも言えなくて、僧侶にだって言えないことが多いとおもいますが、とりあえずそういうときは寺に来て泣いてくださいと。
オキタ それを看板にしてほしい! 納骨以外は来るな、という雰囲気満載のところばっかりだけれど、「泣いてていいお寺」のマークを出してくれたらいいと思う! 住職は相手をしないけれど、自由に入って泣いていいお寺。泣き寺のマークつくりましょう! 非常口みたいなやつ(笑)
平井 仏さんとどうぞ自由に話してかえってください、と。
Okei いいですね。閉まる時間とかも書いておいてほしいですね。
平井 入っていいかどうかすら書いてませんからね。
オキタ 入っていいかどうかと、泣いていいかどうかと、帰って欲しい時間。
Okei ご住職がいなくてもいい! というところがいいですね。
オキタ やりましょうやりましょう! 僕、デザイン考えてみます。
(この催しは、2012年2月26日(日)18:00~開催されました)