経済構造も人々の価値観も、新型コロナの影響で大転換した2020年が過ぎました。
とりわけ私たちのなかで変貌したのは、病や死についてのとらえかただと感じます。
コロナ流行以前であれば、病や死の話を会社のランチタイムに気軽にできる雰囲気はなく、親族の介護や身近な人の余命について、相談できる場がほとんどないともいわれてきました。
しかしこの1年間で、「いつかくるまさか」について、一度は立ち止まり、感じ考えた人も多いのではないでしょうか。
ひとなみ という任意団体名には、こうした「語りづらいといわれてきた話題」について話すことが「人並み(あたりまえ)のこととなりますように」との願いがこめられています。
加えて、あらゆる人が幸も不幸も「自分だけのこと」と思わず、大きな大海のなかのうねりに乗っている(=縁起のなかで生かされている)感覚でいられたらとの思いがあり、個人個人が(ほかの波と不可分ではない、ほかの波のうねりの影響をうけて大きくも小さくもなる)「ひとつの波」である、という意味も含んでいます。
新型コロナというパンデミックを通し、ひとなみの志してきた思いが現実社会にあらわれはじめたようにも思えます。
そのようななか、今回のzoom安居では「死」というテーマをとりあげました。
重たい暗いものとしてではなく、「私たちが常ひごろから当然に考えるべきこと」として、このテーマを正面から扱ってみました。
トップバッターのhasunoha代表 堀下剛司氏は、2020年にhasunohaに寄せられた相談を2019年と比較して発表。
「死が怖い」という相談は横ばいなのに比べ、「死にたい」というキーワードは1.4倍になっているという結果が出ています。
コロナによる経済不安と、ふだんあたりまえに過ぎていたことが崩壊する不安、病気による死が迫ることへの不安などが背景にあると推察されます。
そのうえで堀下氏は、こう述べた。
一見正反対にみえる「死にたい」と「死ぬのが怖い」ですが、じつは「生きることをどうとらえればよいかを自分なりに整理できない状態である」という点では同じです。
どちらも〝前を向いて生きる喜びが損失されている状態〟で、表現としては真逆だけれど、根本にあるのは死生観、死に対する考えを自分なりに整理されていないために起こる問題と感じています。
これに対してお坊さんがたの回答は、「生と死とを分けて考えていない」ということに特徴があります。
お坊さんの回答には、死をどうとらえたらよいのか、ということについて整理をするヒントがたくさん含まれているので、前を向いて生きていくために宗教は必要であると思います。
hasunoha代表・堀下剛司
続いて私Okeiからは、コロナの影響で予想だにしなかった打撃もあったいっぽう、世界各地で大気汚染が大幅に改善するなど、よい影響も起きていることをお話ししながら、(僧侶がたの死生観のように)生と死の境目が混然一体となる瞬間について、文学の例を引いてお話ししました。
さらには、風を感じたり、虫の声をきいたりすることがほとんどなく、そういうものを手に入れるために大枚をはたいて観光旅行へ行かなければならない現代都市生活のなかで、われわれはほんとうに「(精神面で)生きているといえるのか」という疑問も投げかけました。
最後に、ジャーナリストで浄土宗僧侶である鵜飼秀徳さんから、2つの大学で死生学を教えてこられた経験から、いまの若い学生たちが死をどのようにとらえているのかを発表しました。
科学万能、即物的な世のなかに生まれ育ったにもかかわらず、彼らの過半数が、死後世界も「霊魂」の存在も信じているという結果が出ています。
「死後世界と霊魂」については、お坊さんがたにも同様のアンケートをしていますが、じつは現役のお坊さんよりも、学生たちの結果のほうが数ポイント高い。しかも、これは理系の学生です。
そしてお墓についても、「ずっと守っていきたい」が64%。「祖父母または親の代まで」を合わせたら、いまあるお墓を守りたい学生が9割以上なのです。墓じまいや直葬がこれだけ進んでしまう現状とは、真逆の結果が出ています。
もしかしたら、若い人たちのほうが「死」というものを真摯にとらえているのかもしれない。
鵜飼秀徳(ジャーナリスト・浄土宗僧侶)
このあと鵜飼氏からは、学生が書いた死に関する論文の抜粋も紹介されました。
また後半では、それぞれの発表をふまえ、荻須真尚僧侶の司会により、さまざまな角度から「コロナ状況下の1年を経過し、死というものの捉えかたがいかに変遷したか」を語り合いました。