お坊さんと、常識を覆して生き生きしよう!

葬送儀礼のもつ社会的意義を考える

二村 祐輔  日本葬祭アカデミー教務研究室 主宰
interviewer 勝 桂子(Okei) + 石原 利惠子(セレモママ)

2010年6月1日(火) 市ヶ谷 Siddigueにて


今年初頭に、島田裕巳氏の『葬式は、要らない』(幻冬社新書)が刊行され、いくつかの雑誌では葬儀社ランキングも発表され、また葬儀業界に流通大手のイオンが参入と、このところ葬送をめぐる論議はオーバーヒートぎみ。
ひとなみでは、あおられることなく、地に足のついた議論をしていきたいと考えています。

葬儀業界が反省すべきところ、また、マスコミの声に煽られず何をめざしていけばよいのか、日本葬祭アカデミー教務研の二村祐輔先生に、セレモママ石原利恵子とOkeiがお話しをうかがってみました。

いまの時代における
“葬送儀礼の社会的意義”を
考えなければ

葬祭カウンセラーの資格認定機関を運営する二村祐輔氏

Okei イオンの参入などで業界は揺れていますが、私たちはこういうふうに考えているんです。
お葬式で、「せめてお経くらいはあげてもらいたい」と思っている人たちがいる。他方で、理想のお坊さん像のようなものを持っていて、プチ修行をしたり写経の会に行ったりして、伝統仏教からなんらかの安らぎを得たいと思っている人もいる。
その後者の人たちに、「お肉も食べるしお酒も飲むかもしれないけれど、すばらしいことをやっているお坊さんは、まだまだいっぱいいるよ」ということを、伝えていきたいなと思っているんです。だから、大手資本や他業種が参入してきても、住み分けはできている、イオンは前者を相手にしてもらえばいい、と。

二村 僕は、葬儀業界は、“葬送儀礼がいまの時代に、社会のなかでどんな役割を果たせるのか”を見つめなおす時機にきていると思うわけ。安くできます、火葬のみもできます、って足引っ張り合ってる場合じゃない。

Okei グリーフサポート的なことですか。葬送儀礼に時間をかけるうちに、肉親や知人を喪った精神的衝撃が整理されていくというような。

二村 それもあるけど、もっと社会的なことかな。景気がよかった頃は社葬が華やかだったわけだけれど、その当時はまだ、葬儀の席で誰が次期社長になるなんて話をすれば、「先代が亡くなったばかりなのに……」と揶揄された。今は、違うでしょう。一般の人だって、エンディングノートなりで生きてるうちから死後のことを考えましょうという時代なんだから、事業承継という観点でも、葬儀は「ある時代の終わり」ではなく、たとえば次の世代への「はじまり」を発表する場であってもいい。

Okei なるほど。

二村 異業種が入ってくること自体、値段の話じゃなくてもっと精神論的に危機感持たないと。東京では土着の風習なんて希薄かもしれないけれど、地方とか離島へ行けば、いまも仏教よりほとんど土着の信仰でしょ。価値観は多様化していて、葬儀のありかただって、いろいろなものが見直されていっていいはずなのに、都市におけるいまの葬送は、大手企業の画一化された手法、噛んで含んで消化してない情報が支配しようとしているよね。

Okei そういわれると、ずいぶんと危機的状況なような気がしますね……

二村 地域性とか、そこに住む人の価値観も含めて、もっと冷静に葬儀の社会的意味を考え直していってほしいと思う。

Okei お寺とのつながりもない、土着性みたいな懐かしいものも消去されていくなかで、心のよりどころをどう持ったらいいかがわからないから、若い人が新興宗教に走らざるをえなかったりするのかもしれませんね。

セレモママ お坊さんが、もっと説明できなきゃだめなのよ。伝統仏教でも、信者さんが熱心で、毎朝お寺の床を拭きに集まってくれるようなところだってあります。

Okei そうですね。マスコミの煽動に巻き込まれずに、儀礼(宗教儀礼も含めて)が精神面で人を支えることの意味を、もう少し見直していかないといけないでしょうね。

「生きてるときと同じ姿」は魅力かもしれない。
が、「死者らしさ」の認識も大切

 セレモママ 最近流行の、死化粧やエンジェルメイクについて、新たな可能性を感じられますか? 私は、死者についても美の追求をし、最高の姿でお別れをしてほしい、という気持ちもわかるような気がしますが。

二村 いつも思うのは、「死者らしさ」って何なの?ってことなわけ。男らしさとか、女性らしさとか、若者らしさとか、差別じゃなく違いってあるわけですよ。そういうふうに考えたときに、「生きている者と死んでいる者の違いって何なの?」ってことなんです。生きている人の延長の価値観を当てはめるばかりでなく、そこに一本線を引くという冷静さを持っていないと、遺されたほうも死者のアイデンティティに気づけないという問題が残る。

Okei そういえば、若くしてがんで逝った友人や自分の母の臨終のときに、痩せこけた頬を見て、闘病中の苦しさや精神的葛藤を自分のことのように感じて、「大変だったよね、がんばったよね、でももう終わったよ」って素直に言えましたね。
もしもあれが、生きているときと同じ綺麗な容姿のままだったら、訣別したという意識がいつまでも持てずに宙ぶらりんな心境になってしまったかもしれない、という気はします。ましてや、見舞いに来られなかった友人などにとっては、そこにいつもと変わらぬ健康的な顔があったら、早すぎる死の場合は特に、納得がいかないかもしれませんね。

二村 だからね、最初は一度、本当に“死者らしい化粧”にするといい。それを遺族に見せたうえで、もうちょっと頬に赤みをさしましょうか、とか、生前の姿に近づけましょうか、とか。そういった方法も考えていかないと。どこで、「おじいちゃんが死んじゃった」っていうことを納得するのか、ってことなんです。
一度はシワシワになっちゃったおじいちゃんの臨終の姿に納得してもらって、そのあと元気なときの姿に近づけて見送ってあげる、というのは、選択肢としてはあるかもしれない。そういう丁寧な仕事をすることが、遺族のかたの満足感につながっていくんだと思う。

セレモママ 最期のお支度を、業者任せにするんではなく、そうやって対話しながら家族が寄り添うというのは、私もお奨めしたいですね。
つめたい手にふれたときに、最初は気味悪いと思うかもしれないけれど、「胸はまだ温かいですよ。さわってみてください」って語りかけると、ご遺族が「ほんとうだ、まだあったかい!」ってびっくりされるんです。そういう体験を通して、生きてこの世でいろんなことを語ってくれたおじいちゃんのご遺体は決して穢れてなんかいない、生きてるときと同じように、いとおしいものなんだ、っていうことを体感してもらえたらなぁ、と思うんです。

葬儀のもつ、精神面の力を軽視しないで!

Okei 他業種参入の話に戻りますが、これも、ほんとうに不明瞭な部分の膿出しということではある程度の意義があるかもしれないけれども、葬送儀礼の一つひとつの行いにはすべて、遺された人の気持ちにどう残るのか、といった深い精神論がかかわっているわけで、昨日今日参入した業者がその本質をつかむことは難しい、ということもいえますね。

セレモママ それはそうですよ。いま一般のかたはお寺との対話ができてなくて、菩提寺があるのに、「火葬だけでできますか?」とご相談があったりする。私は、菩提寺があるのでしょう?だったらご葬儀の前に相談して、法名をつけていただいたり、お経もあげていただかなければならない、ということをご説明します。でも、宗派だけをうかがって、「何々宗ですか、じゃ~その宗派の僧侶を派遣できますよ」なんて葬儀社が別の僧侶を呼んでしまって、あとから菩提寺とモメる、というような話もけっこうあります。

Okei 私も聞いたことがあります。相談者は、宗派を間違えて葬儀社に伝えてしまい、その宗派のものではない法名がついてしまって菩提寺は激怒、法名をつけ直さないと納骨できないことになり、相談者のほうは「お布施を二度取られた」とご立腹。これ、お寺側は「常識がなさすぎる」とおっしゃるんですが、じつは菩提寺側の情報提供不足もありますよね。檀家なのに、自分の宗派が何であるかも忘れてしまうほど、なんの情報提供もしていないわけですから。  二村 そうしたトラブルにならないためには、やはり生前からの準備というか、情報収集が大事なんだよね。いまは雑誌でも、第三者が評価したランキングだとかいろいろ出ているわけだから、いざ人が亡くなってからではなく日ごろから現実の問題として考えておくことに尽きるだろうね。   セレモママ 亡くなったかたのことを思い返す時間、ふだんの生活では絶たれてしまっている時の流れというのを、葬儀に際して大事にしてほしいんですよね。それがある・なしで、葬儀の意味合いも、その後のそのかたの人生への影響度も全然違ってくる。そのことを踏まえていただけたら、もっと早いうちから知っておこう、ということにもつながりませんか。   二村 それだろうね、精神的な意味合いの重要性。業界の話をすれば、葬儀社・宗教者だけじゃなく、その前には介護士や病院関係者、それぞれ特化された専門家がかかわっているわけだよね。
治療や介護の段階では、自分に合った専門家や業者を選んで、見分けていける。でも葬儀は突然やってくるから、選べない。本当は、エンディングノートなり遺言なり、生前から死を意識していくうちに、自分に合ったメガネを作るのと同じように、自分の最期をゆだねる相手を選んでいかなきゃいけないんだよ。   Okei そうですね。私たち士業者も、成年後見なり遺言作成なりで書類作成のお手伝いをするだけでなく、お墓のことやお寺のこと、葬儀社のことまでトータルにアドバイスしていけたら、という思いもあって、この<プロジェクトひとなみ>をやっている次第です。

安く、低廉に、ではなく“準備することの意味”を

二村 いま、「40代になったら、そろそろ親のこと」という呼びかけで、オヤノコト.netなんてやっているけど、あそこでも葬儀のブースを出せるようになったのは、今年が初めてなんですよ。もっとみんな、オープンに語っていかなきゃいけない。業界の側からも、ただ「低廉に!」じゃなくて、準備することの意味を積極的に伝えていかないといけないよね。

セレモママ そうですね。努力したいです。

Okei 今日はありがとうございました。

この記事を書いた人
『いいお坊さん ひどいお坊さん』(ベスト新書電子版, 2011)、『心が軽くなる仏教とのつきあいかた』(啓文社書房, 2017)ほかの著者、勝 桂子(すぐれ・けいこ)、ニックネームOkeiです。 当サイト“ひとなみ”は、Okeiが主宰する任意団体です。葬祭カウンセラーとして、仏教をはじめとする宗教の存在意義を追究し、生きづらさを緩和してゆくための座談会、勉強会を随時開催しています。
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