お坊さんと、常識を覆して生き生きしよう!

散骨座談会

「散骨」について、お坊さんはどう考えているの?
檀家が「散骨したい」と言ったら、お坊さんはどう思うの?
教義でなにか散骨について示唆されているの?
消費生活コンサルタントで海洋散骨プロデューサーでもあるKiyomiさん(在家・女性)からの発題で散骨について各宗派のお坊さんをまじえて談義しました。

● 参加した僧侶(発言順)
NH=名取芳彦(真言宗豊山派、東京都江戸川区)
MS=増田俊康(真言宗豊山派、千葉県流山市)
MC=松本智量(浄土真宗本願寺派、東京都八王子市)
SS=色摩真了(真言宗豊山派、埼玉県所沢市)
YK=吉田健一(浄土宗、神奈川県平塚市)
YS=吉田尚英(日蓮宗、東京都大田区)
●在家発言者
Kiyomi=発題者。消費生活コンサルタント、葬祭業者(東京都江東区)
Okei=<ひとなみ>発起人、行政書士、AFP

2010年10月3日(日) 要町 なんてんCafe(現・あほうどり)にて

散骨が世間に許容されている現状

Kiyomi 私はご相談を受ける立場なので、実際に「散骨したいけれど、お寺にどう話せばよいの?」という質問を受けたときに、参考にさせていただきたいなと思って発題した次第です。 「菩提寺があるんだけれど散骨したい」というご相談があった場合に、どう話せば納得してもらえるのかと。これから散骨は必ず増えるので、知っておきたいなと。

NH 散骨がOKになって何年?

Okei 法的にはまだOKにはなってないんですよ。石原裕次郎のときに慎太郎氏が「弟の好きだった海に」と言ってもダメだった記憶があるのに、いつしか雰囲気的にOKになったな、という感触はありますけれど、よく「法務省、厚生省(当時)が追認する見解を出した」と言われるのも、省庁としての見解を述べたわけではなく一役人が個人としての見解を述べただけ、という説もあります。実際は、墓地埋葬法が改正されたり、葬送基本法といった別な法律が成立して散骨を法定したわけではないんです。ちなみに地方自治体では、条例によって散骨を規制しているところはけっこうあります。

Kiyomi なんとなく風潮として海洋であればOKになってきたのは10年くらい前からでしょうか。

Okei “葬送の自由をすすめる会”の発足が1991年ですから、その10年後くらいに一般に受け入れられるようになってきたと考えて、10年足らずですかね。

NH 10数年でだいたい何件くらいの散骨が行われたんだろう?

Kiyomi それはもう何万件でしょう。ほとんどの人が全骨ではなく、部分散骨なので、通常のように「埋葬した数」に含まれていても、一部を海に撒いているかたは相当数にのぼります。

Okei ひそかに撒いている人の数は把握できないんですね。

NH でも数年でこのくらい、っていう数をいつかどこかで見たことがあるけど、「散骨するのは変わり者」っていうくらいのごくごく少数だったよ?

Okei それはおそらく、“葬送の自由をすすめる会”の散骨場なりで撒かれた公式の数値ですよね。

Kiyomi 内輪では、小さな葬儀社さんでも、散骨に力を入れてきたところは「5年間で何百件やりました」とか聞きますので、トータルしたら何万件にのぼるんではないかと。あと海外へ行って散骨する人もあるので、数えられないですよね。

撒かれたら心情的にイヤな人も?

NH なるほど。だけど、ダイビング好きな人間としては、ハワイとか東京湾とかに撒かれちゃ困るな~って気持ちもあったり。

Kiyomi でも、化学的なことを言えば、動物の骨、魚の骨と成分的には同じですよ。

NH 化学的にはね。

Kiyomi もちろん、関係のない人は心情的には嫌だろうということはみなわかりますので、自主的な配慮を各業者がしているのが現状ですが・・・・・・。ただ、事実のみを言えば、海で亡くなった人だっていっぱいいて、海に骨を流すのが普通な国もある。その骨は海に溶け込んでるということはあるわけです。同じには語れないでしょうけれど。

NH その死体を食べた魚を、われわれは食べてるわけだよね。

Okei 海(沿岸ではなく沖合い)については、否定的な意見を持つ人は減ってきてると思います。ただ、山はいまでも厳しいようです。飲料水の中に直接的に混じるイメージがあるので。いくら「カルシウムが増えるだけで栄養価の高い水になるだけです」と言われても、住民感情としては納得がいかない部分もあるでしょうし、土地が安くなってしまったりという現実的な問題もあります。だから、地上の散骨場というのは、“葬送の自由をすすめる会”が限られた場所にしかない状況。
でも、いまの問題は、「認識されていないままに、なんとなく数が増大してる」ってことじゃないですか。散骨自体は、大きな葬儀社さんでも「できます」と告知しているので、「もうOKになったんだ」とみんなが思っているんですけれど、実際はそうじゃない、という問題。

じつは東京都は17年もまえのアンケートで…

 そのいっぽうで、東京都が17年も前に行った自然葬についてのアンケートなんていうのがあるんです。石のお墓じゃなく、芝生墓地みたいなものや、散骨に興味がありますか? やってもいいと思いますか?と問うたら、1993年当時でなんと3/4の人が「やってもいい」と答えているんです(「平成17年度第4回インターネット都政モニターアンケート」の中で平成5年の資料として公表)。

一同 へぇ~、そうなんだ。

「自然に還す」=エコロジストという言葉のアヤ

MS 僕は、「自然に還す」っていう言葉は、すごくズルいな、って思うんです。だって、たとえばレストランで嫌いなものが出てきたからって残しちゃって、ぽいっと捨てて「おい、ゴミ捨てんなよ!」と言われたら、「いやいや、自然に還したんです」って答えてるのと同じ。

MC なるほど、鋭いですね。

MS 自然に還す、といって「それはいけないことだ」と言う人はいないでしょうし、「海が好き」といっても、「海なんか好きなのか?」って突っ込む人はまずいない。そこを逆手に取ってるような気がして、ズルいなぁ、と。

SS 火葬のどこが自然に還らないのか、っていう話もありますよね。生物学者の談話が新聞に載ってまして、「いま自然葬が話題になってるけれども、火葬だって成分を分析したらば、何十年かたってちゃんと自然に還っている」と。

陸で埋葬すれば100万円あげる、散骨したら100万円かかる、と言われてもなお「海に撒く!」人なら信じてもいい

MS 自然に自然に、ってみんな言うけれど、そんなに自然がいいんだったら、風邪をひいても薬ひとつ飲んじゃだめだし、医者にも行っちゃいけない。われわれはおおかた、自然に逆らって“不自然”に暮らしてるんですよね。電車も乗らない、車も乗らない、っていうふうにしないで、都合のいいときだけ“自然”を持ち出すのは間違っているんじゃないかと。お坊さん的にいえば、仏教不信とか、お坊さんに対する不信とかがあって散骨を望む人が増えてるのだったら残念なことですね。「自然に還すのが本来の姿だ」と言うのであれば、本来の姿は、「猫でさえ、死ぬところは人にみせない」のであり、「ネアンデルタール人だってちゃんと花をたむけて葬ってる」んです。そこを、業者さんは「自然に還る」という言葉をうまく使ってごまかしている。お坊さんに対して不信を持つんだったら、ぜひとも、業者さんに対しても、一歩引いて疑ってみることを考えてほしいです。
葬儀のときも思うけれど、お金のことをとっぱらって考えないと、本質はみえてこないと思うんですね。仮にもし、お墓に入れるなら100万円もらえるけど、散骨したら100万円かかる、といったときに、「ならお墓に入れる」という人が大半なら、「自然に還る派」の人たちの言い分は筋が通っていないことになる。「俺は100万円払ったって海に撒く」、という人が相当数出てくるならホンモノでしょうけれど。

NH たとえが面白いけど極端だな(笑)

Kiyomi 同じ値段だったら、で考えたほうがいいですね。

Okei 同じ値段だと、石のお墓に入れたら何年かごとに法要とかであとあと万単位のお金がかかる、ということに対しての抵抗感もあるんだと思います。散骨ならそれで「終わり」だから。なので、100万円のたとえはあながち不釣合いではないのかも。

YK でもね、「自然に還りたい」っていうのは、死んでいく人の勝手な思いだったりするじゃないですか。言っちゃ悪いけど、死生観が薄っぺらい(※)んですよ。自分が死んだあと、喪失感を抱えて生きていかなきゃならない遺された人の気持ち、っていうのはまったく語られないで、ロマンだけで語っちゃうのがすごく薄っぺらい。お前の人生はそんな自分ひとりのものか、と。関係性のなかで成り立ってきたんじゃないのかと言いたい。

Okei そっか、つまり「つながりの少ない社会」と関係しているんだ。

散骨後。遺された人にとっては酷な場合も

YK やはり、家族としては、あとから拠り所、端末がほしくなるんですよ。

YS 海じゃ、でかすぎるもんなぁ。

YK そうです。海じゃ、どこにアクセスすればいいのかわからないから、手元供養でもなんでもいいから、どこか拠り所はつくっておかないと。

Kiyomi 私が最初に受けた散骨の相談は、だんなさまの遺言に従って全骨撒いてしまった。でも、その後精神不安定になってしまったというご相談だったんです。

YK そうでしょうね。

Kiyomi だからやっぱり、手元供養などで少しでも残すというのは大事なことですね。
その後は、特に「無宗教で散骨したい」というかたには、「故人に語り掛けたいと思ったときに、どこへ行って何をしたらいいのかわからなくなって混乱したり、いろいろ予想外のこともある」ということをご説明したうえで、「それでもいいです」というかた以外には全骨散骨はお奨めしません。まぁ現実には、ほんの一部を撒くかたがほとんどです。

5万円で便乗散骨できる時代

Kiyomi 今後懸念されるのは、散骨がなんとなく社会に受け入れられているという風潮になってくることで、たとえば家族のなかでさんざん迷惑かけたような人が亡くなったときに、葬儀したけれど、「一緒の墓に入れたくない」という理由で、「お骨は海に散骨したい」という依頼が増えてくるんではないかという問題です。代行散骨(遺族は同行しないで粉骨を業者に託し、どなたかの海洋散骨に便乗し、証拠となる写真を受け取る形式)だと5万円くらいでできる、という経済的な要件も、それに拍車をかけます。

NH つまり遺体処理ってことだよね。撒いちゃうくらいだったら、色摩くんとこのお寺にできたばっかしの納骨堂に入れてほしいよね(笑)

Kiyomi 納骨堂でも、入れてしまうと「供養しないわけにはいかない」という負担感があるんだと思うんです。

YS 海だと供養しなくていい感じになるもんね。つまり捨てたい人だよね。誰かにお参りしてもらうのも嫌だということだよね。

Kiyomi そういった案件は受けることにすごく違和感がありますね。仕事として受けることに抵抗はあるけれど、増えてくることは確実。

NH でもさ、電車の網棚に骨壷置いてきちゃうのとどっちがひどいんだろう?

電車の網棚に置いてくるよりもマシ、ではない!?

MS それはどうかなぁ・・・・・・。女子高生コンクリート詰め殺人しちゃった犯人の少年の談話で、こんなのがあるんです。最後に見たがってたドラマの最終回を主犯格の少年Aが必死になって探して録画して、コンクリート詰めにするときそのビデオを入れた、っていうんですよ。それ、いい話だとして、未成年でもあったし罪が軽くなった話だと思うんですけど、違いますよね。呪われたくなかったからやったんです。電車に故意に忘れていっちゃうと、呪われるかもしれない。それ考えたら、「せめて業者に委託して散骨」っていうのは、やっぱり自分本位なんです。

SS だから、5円で撒けるんだったら(網棚に乗せるより)撒いちゃえ、と。

Kiyomi 納骨堂でも、一番安くて10万円くらいかかるじゃないですか。いまのところ、嫌な言いかただけれども、代行散骨は「最も安い一般人の遺骨処理方法」ではあるんです。

MS 流山市では、身寄りのないかたのお骨は6千円でお寺が預かってますよ。

Kiyomi 身寄りが“ある”から問題なんです。ある(から福祉葬にはできない)けれども、長く関わらずに、簡単に、一時で遺骨のことを済ませたい、というケースが増えているってことなんです。
話をもどして、「部分散骨で、うちのお父さん海好きだったから撒きたい」というご相談があったら、みなさん抵抗はないですか?

じつは僧侶は、散骨に抵抗はない
(死生観が確立できているので)

YK 一部だけなら、抵抗はないです。

MC 僕も同じ考えで、教義的には全然かまわないです。親鸞は自分が死んだら鴨川へ流して魚の餌にしろって言ってますし。でも弟子は親鸞のことばを守らなかったんですね。それはそれでいいと思いますが。  むしろ手元供養のほうが気分的には嫌かなぁ・・・・・・手元供養するぐらいだったら散骨のほうがいい。

NH からだの一部を、いつまでもそばへ置いとくなよ、という気持ちはあるね。心のつながりを求めていけばいいのであって、一般的には七七日忌まで置いておいたら、あとは位牌だけ仏壇に残すでしょ。

Okei 手軽に手元供養をしてしまうと、仏壇の端に埃をかぶっている、ということにもなりかねないと聞きますね。

YK 僕も、いずれは手放せるようなステップに付き添っていくのがお坊さんだと思ってます。でも、グリーフの深さというのは人それぞれで、七七日忌で済む人もいればもっとかかる人もいる。だから、散骨したとき一部は手元供養にする、というのはアリかなと思ってます。

NH それはそうだね。なにがなんでも七七日忌で、とは思わない。だけど、「ずっと置いときたい」という人がいたら、「収めるとこへ収めちゃいな」という話はすると思います。

Okei グリーフの状態から喪に服した状態があけていくプロセスが49日程度で訪れるように寄り添っていくのが宗教者の役目、ということですかね。

MS 僕が言ってた手元供養は、お位牌もないような場合です。よく見る手元供養の写真ていうのは、仏壇もお位牌もなくて、手元供養の前にリンがあって線香が立ってる感じでしょ。菩提寺もなくて、僧侶との関わりもない。だけど供養はしたい、という場合の話ですね。

SS 僕もNHさんのご意見に賛成です。故人との別れを物理的にも完結させることが、死を受け入れる、ひいては死生観を深めることの王道のプロセスだと考えるからです。ただ、いまは家族の形が昔とはだいぶ違っていて、大家族が互いにフォローできる形態ではなく、それこそ子どもさんもなくて夫婦のみであれば配偶者を亡くすってことは、自分の半身を失くすのと一緒で、痛みはそうとうに大きいと思う。だから、それを癒すために手元供養という方法は、対症療法的にあってもいいかと思います。 Okei 「散骨」から「手元供養」のほうへ話は派生しましたが、Kiyomiさんの発題にあった「檀家さんが散骨したいと言ったら?」に話を戻してみましょうか。

MS もしウチの檀家さんから「散骨したいんだけれども」と相談されたら、止めはしません。でも、いちおう自分のHPの「散骨」の項目に書いているような話はしますよ。それでもやる、というなら「どうぞ」と言いますけどね。

YS 海に撒いたあとも、海に向かってときどきちゃんと手を合わせてください、と伝えたいです。日蓮聖人のお言葉に、お題目を唱えて供養したお骨には、亡き方の魂が宿り、仏になっているのだ、と。だから、仏さまを誰も来ないようなところに撒いたり、放置したりしてはいけない、きちんと供養しなければいけない。そこのところをきちんと説明して、「もし撒くんだったら、きちんと供養はしてください」と。
あと、僕自身は船に弱いから、「一緒に行ってくれ」って言われてもカンベンです(笑)

MS 海には、いろんなゴミとかも流れていくじゃないですか。実際、お墓に向かってお小水を引っ掛ける人はいないと思うけれど、海に向かってそういうことをする人がいないとは限らない。そういう場所に、遺骨を撒くのか、ということを考えたいですね。

Kiyomi あ、海に散骨したあと、遺族の気持ちとして、「海が汚れてほしくないから油を流さなくなった」といった声はあります。人にもよりますけど。

散骨している人も、じつは儀礼を好む

YK だとすると、ものすごい宗教的じゃないですか。穢されちゃいけないとか。「死んだあと、海に還りたい」という気持ち自体、ものすごく宗教的な気持ちの発露だと思うんですよ。それなのになんで、散骨する人たちは「私は無宗教です」と言い張るんだろうな~。

Kiyomi うちの場合、散骨ポイントまで行くと、まず海に礼儀としてお酒をまきます(望まない人はのぞく)。粉骨をそのままバッと撒いてしまうと舞い上がるので、水に溶ける紙にくるんで落とすようにして、そのあと花びらを数枚まいて、手を合わせて黙祷して、周囲を3回ほど旋回して帰る、という感じですね。

YK 結局、ネアンデルタール人的な儀式はやってるんですね。

MC そうだね、それはもう“儀式”だね。

Kiyomi 散骨はたいてい「セレモニー」という形を伴いますね。お別れに何もしないと、ご遺族も気持ちの決まりがつかないでしょう。

喪服では行かない。公認ではないという罪悪感?

NH でも、GパンとTシャツで行ったりするの?

Kiyomi GパンとTシャツでも行きますよ。喪服や仰々しい格好をしてたら、港を出るときに目立ちますから。「散骨に行くんだな」って。レジャーなどで来ている人の気持ちにも配慮しないと・・・・・・。

Okei こっそりやるけれど、一応の儀式がそこにはある、ということですね。
あと、ここまでうかがって問題だなと感じたんですが、お坊さんが散骨に対して異論を唱えると、「檀家さんが減るからでしょ」というふうに見られてしまって、本来論ではなくなっちゃうことが残念ですね。

MH 海の水と同化するのがたかだか100年とか200年、遅くなるだけじゃないですか。それなのに「ロマン」で語るというのには抵抗がある。何十億年という地球の歴史からみたら、ちっちゃい話。

NH そのちっちゃいところに、みなさんロマンを求めたいんだよね。結婚なんてまさにそうじゃない。「こいつと一緒に来世も同じ蓮の上で生まれたい」なんてさ。ど~ゆ~ワケなんだ、と言いたくなっちゃう(笑) でも、みんなそれを望んで一緒になるんだから、ある程度は認めたほうがいいんじゃないの。

「ロマン」は自己満足でもある!?
一般の人にたいして、
宗教者が散骨を薦めない本当の理由

MC いまNHさんが言ってた「ロマン」ていうのは、言ってみれば自己満足なんです。思い通りに完結したい、っていう。それは、実は宗教の真反対にあるわけ。宗教っていうのは、「我が身を問われ、我が身が切り崩される体験」なんです。それを避けて自分自身や自分の思いを固く保持したまますべてを収めようとすることについての、反発なんです。宗教者が反対するのは。

一同 なるほど~。

Kiyomi もうひとつ、ロマン論ではなくて散骨を選ばれた例をご紹介します。奥さんが亡くなって、ご主人が散骨したいと言ったんです。で、いるけれど、未婚で子どもがもつくらないらしい。自分も次男で墓はないし、自分の年齢を考えると、そんなに長く生きるわけではないと思う。つきあってるお寺もないし、宗教にも興味はない。墓はいらない。ただ、全部撒いてしまって拝むところが写真だけというのは寂しい、と子どもが言う。だから小さな骨壷で手元供養はしたいと。

MS 全部ない、というのじゃなければ、いいんじゃないですか。散骨でなくても、習慣で、のど仏の骨だけ取っておく、という地域もありますし。

MH あ、そういえばウチの檀家の30代の男の子だけど、若い奥さんが亡くなって、その前にお母さんが亡くなったけど、火葬場で遺骨のかけらを食っちゃったよ。

MS みんなが見てる前で?

NH そう。

YK そういう風習も一部地域にはありましたからね。

NH でもそのとき、そんなロマンがあるんだ、と思いましたよ。口に入れることで、「命が受け継がれる」っていうロマンね。

MS だけど考えたら、ちょこっとずつ食べちゃうっていうのは一番安価な処理方法ですよね。

NH でもさ、あれは拾骨の高まったテンションだからこそ食べられるんじゃないのかな~。

MS 粉骨にしてもらって、ミートソースか何かにちょこっとずつ毎日混ぜちゃえば。

Okei あ~、私ケンタッキーフライドチキンの骨を全部食べてた時期があるんで、食べられるかも。

一同 え~~~~

Okei 以前、なにかの本で読んだんですけど、まだ粉骨にする機械もなかったころ、散骨したい人は自宅でハンマーでひそかに粉骨にしたらしいんですね。マンションなんかだったら、座布団を何枚も重ねて、ハンマーの音が響かないようにして。で、だんだんに砕けていく骨がいとおしくなって、最後はたいていの場合、撫でるんだそうです。

YS いとおしいんだったら、撒かなきゃいいのに。

MS そうそう! たとえば、すごい小さい赤ちゃんのときに自分の子どもが死んだら、骨を食べるっていうのもあるでしょう。撒いちゃうくらいだったら、食べたほうがいい。

Kiyomi 法律違反にはならないよね^^;

MS う~ん、ウチのかみさんはたぶん、食べちゃうと思うな~。

Okei MSさんの骨を?

MS いやいや、僕の骨は食べないでしょうけど(笑)、子どもがもしそうなったときには、ね。猟奇的にうつるかもしれないけれど、なんとなくその気持ちは理解したいと思う。

NH ちょっと食べる話になってそれちゃたけど(笑)、散骨には、「捨てたい人もいる」っていうことが問題だってことだね。

YK 切り離して考えなきゃいけないってことですね。

NH そうそう。「捨てたい」んであれば、「安く納骨できるお寺ご紹介します」ってことになるだろうし。

Kiyomi でもウチで紹介できるところって、最低でも20万円なの。

YK うちは1万円でもいくらでもいいです。

MS うちもいくらでもいいですよ。

NH だって仮に、どっかで焼かれた骨壷を本堂前に置き去りにされてたら、お金もらおうったってもらえないけど、供養はするよね。昔はよく、寺に捨て子があったじゃない。犬猫も。俺たち、警察には届けないですよ。

Okei それはいいお話ですよね。電車の網棚に置き去りとか、遺体を何十年も部屋にそのまま、って人たちも、そういうことを知っていたら、お寺に置き去りにしますよね。

YK そのときは、ちゃんと供養してくれるお寺を選ばないと。警察に届けるお寺もあるかもしれないよ(笑)

Kiyomi でもね、そういう「いいお寺さん」を知ることができればいいけれど、そうじゃない人が大半で。たとえば「後継者を必要としないお墓」を扱うお寺もあるけれど、それでもなお、散骨を選ぶ。要は、お寺ともお坊さんとも関わりたくない、っていう人が増えてる現状があるんですよ。

Okei 私のご相談者では、散骨散骨と言っていても、「よりしろがなくなります」といった話を少ししただけで、散骨が選択肢から消えていくかたも、けっこうあります。それを考えると、やはりYKさんが言うように、死生観が薄っぺらいというか、死生について考えたことすらないんでしょうね。
ひと昔前だったら、あえて自発的に考えなくても、どこかのお寺なりで「来迎図」みたいなものは見た記憶があったり、どんな人でも「死んだらお迎えがきて、三途の川をわたるんだ」と信じていたから、そのためにはどうすればいいか、選ばなくても自然と決まっていた。

YK ストーリーがきちんと皆の心のなかにあったからね。それがなくなって今は、個々人がストーリーを作り上げなきゃならない時代ということだね。われわれ宗教者の役割ってことかな。


※【吉田健一住職より、「死生観が薄っぺらい」について補足があります】
自分で喋っておきながら活字になってみるといささか過激すぎ、驚きまして補足です。

日本人は昔から絶対的な教理教条を持たない代わりに、死生観や形而上の問題については皆で物語を共有していたんだと思います。
死んだらどうなる?なんて死んでみなければ分からないけど、皆が同じ物語に副って年中行事を行い、死の準備をし、葬式を出してもらい、葬られて行く事で安心感を得たのかと思います。
宗教家もその物語に権威付けする形で役割を担っていたのでしょう。そこには死の不安を取り除く機能も、グリーフ支援もちゃんと網羅されていていたのかと。

かつては、「いや~、ほんと惜しい人を亡くしたなぁ。でも良い葬式だっあよなぁ、そうだよな、みんな!」っていう「良い葬式」っていうのが“人並みな”お葬式であり、コミュニティが共有している物語に副ったやり方で終始完遂した場合をいうのであって、「もうこれ以上することは無い!充分だよ!」という諦観でもあったかと思います。
すなわち、今のように個性的で故人のキャラクターが出ていて良いじゃないの!っていうのとは対極にあります。
どちらが良くて、どちらが悪いというのではありませんが、最低限度の「物語」を共有しておかないと、葬儀が極一部の人の満足だけで終わってしまいます。

今後は、日本人が死生観についての物語を最小限どこまで共有できるのかを私たちはもう一度再確認しなければなりません。そこが生命線でもあるからです。

時々、私のお寺に、「七七日忌法要をやって欲しい」と来る方がいます。故人の言いつけ通り、無宗教の「お食事会」をやり、七七日忌にはみんなで想い出のフォトスライドを見て、手紙を読んで会食をする「偲ぶ会」をしたけれど、やっぱりちゃんとした法要をしたいと。葬儀の時には遺族も納得しているのですが、時がたつにつれ家族も心配になり、周囲からも色々と言われるようにもなるのですね。手紙を読むことも想い出を偲ぶことも悪いことではないので、やったらどうですか?そのかわりに私がお経を称え故人を供養し、皆さまの読んだ手紙を奉げる儀礼を行いましょう、と提案します。通常の法事よりも長くなりますが、厳かな儀式になると自負しています。「ただ手紙を読むだけ」では届かない思いも、宗教的な儀礼を通じて(それこそトランスレーションして)故人に取り次ぐことが可視化されます。「これで本当に良いのだろうか?」「なんだか落ち着かない」、死の問題には当然そのような「X(エックス)」が存在するはずです。そのⅩの解は、宗教であるはずです。人々はまだお坊さんが行う仏教的な儀式や法要の力を求めていると「私は」信じています。

現代の日本人が最小公倍数として共有できる物語があるのだとすれば、その物語(死生観・宗教観)に私たち宗教家がどれだけ自覚的にコミットして行けるかが多いに問われる時代にあります。「お金は無くて質素だけで、お坊さんが来てくれてお経をあげてくれた」そんなことがまだまだ人々の心にある不安Xを埋めることができることを信じています。

ということで、宗教が何たるかを無自覚に「無宗教」を標榜しつつ、おもいっきり自分の宗教観と自我に対する執着するタイプの「ロマン派散骨」が???なのです。
無宗教なら、「後は好きなように勝手にやって!」で良いのに……。

この記事を書いた人
『いいお坊さん ひどいお坊さん』(ベスト新書電子版, 2011)、『心が軽くなる仏教とのつきあいかた』(啓文社書房, 2017)ほかの著者、勝 桂子(すぐれ・けいこ)、ニックネームOkeiです。 当サイト“ひとなみ”は、Okeiが主宰する任意団体です。葬祭カウンセラーとして、仏教をはじめとする宗教の存在意義を追究し、生きづらさを緩和してゆくための座談会、勉強会を随時開催しています。
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